メケメケ

メケメケ

町工場や倉庫がひしめく運河のほとりから、セカイに向けて書き綴るブログ。

内田樹氏のホ・ヨンソン詩集書評への批判について思うこと。そもそも……

f:id:yanvalou:20200608151007j:plain
ども。檀原(@yanvalou)です。

Twitter上で内田樹さんが西日本新聞紙に寄稿したホ・ヨンソンさんの詩集『海女たち』の書評がフルぼっこ状態になっていますね。

きっかけは、同書の邦訳版を編集したアサノタカオさんのブログ記事です。

 ▼

asanotakao.hatenablog.com

内田さんの書評自体も貼っておきますね。

f:id:yanvalou:20200608145912j:plain

気持ちはすごく良く分かります。 
でも「なにを今更」という思いもありまして。

 

 

日本の書評

ウェブライターが一般化した結果、彼らに書評の書き方をさらっと伝授するウェブサイトやブログをそこかしこで見かけるようになりました。
正直言って、全部間違っていると思います。

それらノウハウサイトが掲げる書評の必要項目とは

  1. 本の内容(ネタバレしない程度の概要)
  2. 作者についての言及
  3. (実用書であれば)どんな役に立つのか(想定読者層)
  4. 自分なりの評価

といったところではないでしょうか。

このなかで僕がおかしいと感じるのは、1と4です。

 

書評はネタバレ前提の方が良い?


本の世界では「書評はあくまでも、書籍を読んだことのない読者に向けて書くもの」という前提になっています。
そもそもこの前提がおかしいです。

つまりこれは、「書評というのはプロモーションツール=宣材である」という視点に立っていることを意味しています。
これでは良質な書評は書けません。

ちょっと考えてみてください。
本でも映画でも構いませんが、観賞後に

  • 「他の人はどう感じているんだろう? 批評ブログで、この作品の感想を知りたい」
  • 「難しくて良く分からなかった。専門家に解説して欲しい」
  • 「作品のことをもっと知りたい」

と思った事はないでしょうか?


書評にはこのような「読後のフォロー」というニーズが間違いなくあります
しかし日本の書評には、そういう機能が全く考慮されていません。

映画ライターの町山智浩さんの仕事は、きちんとこのニーズを押さえている気がします。
町山さんだけではありません。
そもそも演劇やアートの世界では、ネタバレは珍しくありません。それは演劇やアートの批評が批評として独立しており、宣材として扱われていないからです。


しかし本の世界に関して言うならば、そういう仕事をしている書評家は寡聞にして知りません。

この手の欲求を満たしてくれるのは、日本の現状では、たぶんオフラインでの読書会ということになるのでしょう。

目に付いた良質な「書評(実際には議論の書き起こし)」として、以下のリンク先をご紹介します。

medium.com

長いですが、読み通すと読みの深さ、議論の熱さ、背景知識の豊富さ、レベルの高さに目が覚める思いがすることでしょう。
本来であれば、ここに書かれていることは書評家がやるべきことです。
盛大にネタバレしていますが、本を読むより先に、こちらを先に呼んでしまっても良いとさえ思います。

 

類書・関連分野に関する知識が必要とされていない不条理

関連する過去の数多の作品と引き比べながら、今まさにまな板の上に載せた作品を評価していくのが批評であり、書評です。書き手に膨大な知識のストックがなければ書けるはずがありません。

今回の内田さんのケースがまさにこれで、専門外の人にお願いしている時点でまともな書評になることを放棄しています(つまり最大の戦犯は内田さんではなく、西日本新聞の編集者でしょう)。

演劇やアートの世界では大学などのアカデミックな場で批評を学ぶ機会があります。
しかし書評に関してはどうでしょうか?

「プロのライター」ではあっても「一度も書評を書いたことがない、書評のど素人」が、数をこなしているうちに「書評の書けるライターとして認知されていく」というパターンが大半ではないでしょうか?

書評が書評として独立しておらず、宣伝行為と目されているのですから、学ぶ機会がないのはある意味当たり前です。

しかし本来の書評とは、作品を文学の流れの中に位置づける作業そのものだと思います。 

「この本は誰の影響下にあり、類書・競合書と比べてどうなのか?」

「この本(あるいは書き手)はまったくあたらしいタイプだが、この作風に名前を付けるとしたら、なにか?(ex「第三の新人」「ケイタイ小説」など)」

こう書くと「それは批評家の仕事で、書評にはそこまで求められていない」という反対意見が出そうです。
だとしたら、書評は批評家が書くべきであって、それ以外の人たちは「感想」か「紹介文」を書けば良いのではないでしょうか?

宣材として充分機能しますから、問題ないはずです。
(ただし「レビュー」などと言い換えた方が良いでしょうね)

そもそも本に関して批評を書くのに、その根拠が書き手の主観である時点で、失格でしょう。
これまでに先人達が積み上げてきた評価の蓄積、批評の体系を前提に、それを引き継ぎ、更新していかなければ良質な仕事は出来ません。
いくら「書評」などと言い繕っても、先人からのバトンタッチがないのであれば、それは「感想」以外の何物でもないはずです。

* * *

本来の意味で書評と呼べる仕事は、アカデミックな世界での作家研究や評伝、あるいは文学史研究の中にしかないように思えます。

以上のような観点からすると、アサノさんの嘆きは、ちょっと論点が浅いように思えますが、いかがでしょうか?


今日の記事は以上です。
またのお越しを、お待ちしております!

 

追記
すっかり忘れていましたが、以前も一度書評のことを書いていたようです。

www.yanvalou.yokohama

皆さんは書評という「制度」について、どんな風に考えていますか?