メケメケ

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町工場や倉庫がひしめく運河のほとりから、セカイに向けて書き綴るブログ。

川上未映子『ゴールデンスランバー』(金色のうたたね)を訳戻ししてみた(NYT記事翻訳)


Pic by David from Pixabay

 

ども。檀原(@yanvalou)です。

前回に引き続き、翻訳ものです。

コロナ禍まっただ中の2020年5月19日の「ニューヨークタイムズ」に小説家の川上未映子さんが短編小説を寄稿しました。

www.nytimes.com


スマホだと問題なく読めますが、PCだとうまく読めません。あしからず。

5ヶ月経って朝日新聞にも日本語版が掲載されたのですが、例によって全文読めるのは有料会員だけ。無料で読めるのは前半部分のみです。

www.asahi.com

ニューヨークタイムズ」版は英語ですが、全文無料で読めます。そこでいつか和訳してブログに書きたいと思っていたのですが、面倒なので先延ばしにしていました。便利なDeepLが登場したので、手を借りながら訳してみます。

原文は日本語ですので、日本語→英語→日本語と訳戻しした形になります。



原文である日本語版と比べると一目瞭然なのですが、段落をまたいでセンテンスの移し替えが行われていたり、英語圏と気象条件が違うことを考慮して表現が置き換わったりしている箇所が見受けられます。(僕ではなく)英語版の翻訳家がどんな作業をしたのか、読み比べると了解できるので楽しいと思います。

なお著作権は川上さんと「ニューヨークタイムズ」に属します。語訳や誤植に気がついたらお知らせください。

では和訳した英語版からどうぞ。

 

●'笑顔でいられるのに、なぜ動揺するのか'

ゴールデンスランバーズ 著者による新作短編小説

この記事は、The Timesの哲学シリーズ「The Stone」の特別コーナー「The Big Ideas」の一部です。「なぜアートは重要なのか?」という問いに、10人以上のアーティスト、作家、思想家が答えています。

 

2020年5月19日

3月下旬の時点で、新型コロナウイルスはすでに世界中に大災害をもたらし、インターネット上には恐ろしい映像や画像が溢れていた。しかし、日本では信じられないほど平穏な日々が続いていた。3月21日、日本政府はまだこの夏にオリンピックを開催すると考えていたが、多くの人がマスクをつけて、あるいはつけずに、桜の下で一緒に楽しむために外に出た。

その写真を見たアメリカの友人が、「これは現実なのか?」と私にメールを送ってきた。

私は「私も信じられないけど、間違いなく現実だ」としか言えなかった。

あれから状況は一変した。しかし集団催眠にかかったかのように桜を見上げる人々の牧歌的な姿が頭から離れない。今思えば恐怖で呆然としていたのだろうが、その中に微量ながら別のものが混じっていた。ディストピアにもユートピアにも欠かせない、裏から仕込まれた歓喜に近い何か。

家父長制や同調圧力が宗教のように機能している日本で、危機に直面するというのはどういうことなのか。欲望や怒りが奪われ、知恵が枯れてしまうのはなぜか? こんな時、どんな抵抗や作品が生まれるのか? そんな私の思い、予感、希望、疑問から、この物語が生まれた。

 

●ゴールデン・スランバーズ(金色のまどろみ)

私たち全員が結婚式に参加した。私たち全員というのは、私たち全員という意味だ。例えば「やあ! 元気かい? 私たちは全員は元気だよ」 というときの、その全員。

その日は、あらゆる不幸を焼き尽くすような晴天だった。会場全体が花で埋め尽くされ、テーブルにはケータリングの料理が並んでいる。庭にも建物にも、バラの山が夏の盛りの落雷のように咲き誇っていた。

その暑さを想像すると汗が止まらない。5月の午後にしては、あまりにも暖かすぎた。新郎は有名な画家、新婦はまだ駆け出しの歌人である。じつは招待客全員がなんらかのアーティストだった。私自身もそうだ。

新郎は75歳で新婦は21歳。私がもう少し若かったら、この年齢差について女性の搾取が強調されているとか、気持ち悪いとか、いろいろな感想や意見を持てただろう。でも最近は誰も何も言おうとしない。この件に限ったことではない。昔は大問題になったこと、見過ごせないと思っていた類いのことが、もはや世間の関心を引き起こさないのだ。2020年の春、生きているだけで十分ではないか? 誰も難しい問題を考えようとはしない。

私たちには向いていなかったのだろう。自分の領域の外にいる人たちに負けないように最善を尽くしたものの、結局私たちは、どこにも辿り着けなかった。笑っていればいいものを、なぜ怒るのか。私たちは皆、そう思っていた。実は、私たちはそのように育てられたのだ。「自分の意見を言うのはいいことだが、人生にはもっと大切なことがある。常に無関心でいることは、一時(いっとき)だけ関心事を頭の中から追いやるよりも魅力的だ。どうして私たちは、一番大切なことを忘れてしまったのだろう? それは私たち全員が顔を出すことで、初めて成立する。さっき言ったように、私たち全員がだ。

だから隣の席の女の子が突然不満を口にしたとき、私は唖然とした。

「こんなゴミみたいなこと、誰も飽きないの?」

彼女は私が昔知っていた女の子と同じような声で、しかもそんなことを言うにはまだ幼すぎる少女のように見えた。

「どんなゴミ?」 と私は尋ねた。

少女は何も答えない。彼女は編み物を続け、皿の上の冷たいチキンを睨みながら、針を素早く動かしていた。彼女は編み物作家に違いない。なるほどね。その日の予定では、私たちアーティストが自分の作品をパーティーのみんなと共有することになっていた。食事代もプレゼントもなし。これは、招待状にカップルが書き送ってきたもので、私たちのアートで愛を示し、二人の結婚を祝ってほしいということだった。最近の流行りである。
「いつかこのゴミみたいな場所を出て、ゴミじゃない世界を見つけるんだ」

彼女は濃紺のインクのような声をしていた。豆腐を貫くナイフのように鋭い目。毛糸玉は彼女の膝の上で回転した。

「ええと、あなたが言っていることはわかるわ」と私は慎重に言った。少女は何も答えない。

彼女の針は一定のリズムを刻んでいる。針先が毛糸をぐるぐると編み込んでいく。針の先端を編み目に突き刺すと、彼女は毛糸を新しい輪に通した。

私は彼女の仕事ぶりを見ていた。私は、彼女が仕事で何をしているのか聞いてくるかもしれないと思ったが、彼女は興味がなかったのだろう。彼女が編み物に全神経を集中しているのが見てとれた。それが何であれ、その編み物は巨大だった。完成した部分は彼女の脚にかかり、ほとんど芝生に触れんばかりだった。それは体に巻きつけるものなのか? 自分の体の下に敷くものなのか? 

糸を編み足していく彼女の手の動きを見ていると、気分が高揚してくるのを感じた。その気持ちを紛らわすために、何を作っているのか聞いてみようと思った。でも、なんだかよくわからない気がしてやめた。
「ねえ」。私は前方のステージに集まっている人たちを指さしながら言った。「とりあえず、それをその辺に置いたらどう? あそこに行って、何かしゃべりなよ。普通の人のように話したら?」

彼女はじっと私を見ていた。かなり長い間、私は彼女の皿の上の冷たいチキンになったような気がした。彼女は頭を振ってため息をつき、鼻まで鳴らして、まっぴらごめんという感じだった。

気温が上昇し始めた。バラの塊がどんどん大きくなっていく。自然が閉ざされた。誰かが笑っていた。音楽が聞こえてきた。眠気と安らぎが体を満たす。目を開けているのが辛い。私は自問自答していた。「本当に結婚式にいるのだろうか? 葬式ではなくて?」分からなくなってきた。いったいこの2つの違いはなんだろう? 言うまでもなく、それは主役が生きているか、死んでいるかということだ。新郎の横に立ち、非の打ちどころのない歯並びを見せて微笑む新婦は生きているように見えたが、果たしてどうだろう? 編み物をしている女の子に聞けばいいのかもしれない。

重いまぶたを必死に開けて、私は彼女の方を見やった。彼女はもういなかった。でも、そんなことはどうでもよかった。目を開いていようといまいと、ここで椅子に座っていようといまいと、皿の上の鶏肉を食べていようといまいと、ほとんどなにも変わらないのと同じように。もう、何もかもがどうでもいいのだ。

雨が降ってきた。光を受けて、すべてが煌めいた。結婚式も、そして私たち全員が一緒に過ごした午後も、優しく黄色のまどろみに落ちた。私たちは作品を芝生に投げ捨て、近くに敷かれた折り畳みシートに手を伸ばした。隣の人に気を配りながら、両手を上げて無害な雲のようにシートを大きく優しく広げる。傘を差す人はいない。みんなでびしょ濡れになればいい。濡れるのが嫌なら、シートの白さに包まれながら、みんなで身を寄せればいい。

日本語からの翻訳:サム・ベット、デビッド・ボイド
(Translated from the Japanese by Sam Bett and David Boyd)

 

川上未映子は、小説「Heaven」、「すべて真夜中の恋人たち」、そして初の英語版小説として出版され新たに増補された「乳と卵」の著者。

 

●日本語原文=小説「Golden Slumbers」

 その日はあらゆる不幸の肩身が狭くなるような晴天で、わたしたちはみんなで結婚式に参加していた。みんなというのは、みんなだ。「こんにちは、そっちはどう?  こっちはみんな仲良くやってます」と言うようなときの、みんな。

 会場は花で埋め尽くされ、テーブルには品のいい料理が並べられている。庭や建物のあちこちに盛られた薔薇(ばら)は、まるで真夏の入道雲のように堂々とした咲きっぷり。そう思うと急に汗がにじむ。五月にしては暑すぎる午後。新郎は、この国の人なら一度はその名前を聞いたことのある有名な画家で、新婦は駆けだしの歌人だった。そういえば招待されたわたしたちもみんな、芸術家だった。

 新郎は75歳で、新婦は21歳。わたしがもう少し若い頃だったら、非対称性がどうのとか、女性の主体性の搾取がどうとか、気持ちが悪いとか、みんな色んなことを言うか思うかしたかもしれない。けれど最近はもう誰も何も言わなくなった。こういうことだけじゃない。ほかの、前ならもっと熱くなれたようなこと、自分だけはぜったいに見逃さないからなと思いつめていたような瞬間はすべて、去ってしまった。あの二〇二〇年の春を境にして、まあみんな生きてるだけでよかったよね、みたいなことになって、もう誰も難しいことは考えなくなってしまったのだ。

 わたしたちって本来はそうだ…

(以下、有料会員のみ公開のため省略)

 

いかがでしょうか?

なかなか面白いことになっていると思います。

今日の記事は以上です。
またのお越しを、お待ちしております!