メケメケ

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町工場や倉庫がひしめく運河のほとりから、セカイに向けて書き綴るブログ。

聖地巡礼とデジタル・デトックス

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ども。檀原(@yanvalou)です。

さいきん「デジタルデトックス」の有効性がさかんに議論されるようになりました。
いわゆる「SNS 断ち」や「一定期間ネットから離れた生活」という奴ですね。

じつは4年ほど前に、デジタルデトックスを取り入れたアートプロジェクトを立案したことがあります。

 

1ヶ月間東北を駆け抜けた「みちのくアート巡礼CAMP」

関東が夏日のような陽気に包まれていた先々週、その陽気に刺激されて、4年前の2015年に参加した「みちのくアート巡礼CAMP」という合宿ワークショップのことを思い出しました。

art-junrei.jp

この企画は震災や東北の文化を絡めつつ、その度に提示されるテーマに沿って、各自がアート作品ないしはアートプロジェクトのプランを考えてプレゼンする、というものです。

夏の東北を巡る、1ヶ月の集中ワークショップ

参加者たちは震災後の東北に身体と思考をおき、時空を超えた人々、土地、歴史との出会いを経験します。

というのが謳い文句。

講師陣は豪華で

という顔ぶれでした。

 

聖地巡礼とデジタル・デトックス

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2015年のテーマは「聖地巡礼」でした。
事前に数冊の課題図書が示され、それを踏まえてプランを考えるように、というお達しでした。

プランを立てる上で考えたのは、こんなことでした。

「聖地」とは、俗界とは時間の流れが異なる場所。特に聖地の中でも至聖所といわれる聖地の本丸は、極論すればある時点で時間が止まっている場所。歴史がない場所。
 ▼
「巡礼」とは、歴史の流れから距離を置いた場所に行くこと
 ▼
日常とは時間感覚の異なる世界に一定期間留まる、というプロジェクトを提示する

 

日常生活の中に、通常とは異なる時間感覚、身体感覚、心理状態を手軽に経験できる場所はあるか?
 ▼
お風呂はどうか?
 ▼
銭湯や温泉なら、聖地巡礼的な意味合いを持たせられるのでは?

 

アボリジニの聖地には何もない。そこにあるのは神話だけ。
ある場所を言葉の力で聖地に変える
イニシエーション。そこで過ごすことで、アイデンティティを獲得する。通過儀礼

 

以上のアイデアの断片を元に、僕が提示したプランは以下の通りです。

いわゆる「湯治」を下敷きにしたプランです。

温泉療養の期間は概ね3週間
「湯治は、七日一回り、三回りを要す」

と言われているので、参加者は21日間、青森県八戸市にある「金吹沢ラジウム鉱泉」の廃墟に寝泊まりします。

参加者は所定の場所に集合後、マイクロバスで「金吹沢ラジウム鉱泉」に向かいます。
バスの車中では導入となるオリジナル・オーディオブックの鑑賞が行われ、非日常の世界へ最初の一歩を踏み出します。

逗留中に何をするのかは詰め切れなかったのですが、「時間の止まった生活」を体験してもらう、ということだけは考えていました。

念頭に思い浮かべていたのは、ヨーロッパの修道院を撮影したドキュメンタリー映画『大いなる沈黙へ』。


大いなる沈黙へ グランド・シャルトルーズ修道院 [DVD2枚組+CD1枚組]

修道院のリズムに則って、決まった手順で決まったことを反復する生活を送ることで、修道士たちは何らかの変化を体験します。

デジタル機器を封印して頂き、修道院に紛れ込んだような、あるいは歴史が始まる以前の世界に迷い込んだような、そんな体験をしてもらうことを目指していました。
都合の良いことに、この地はほんの数年前に閉鎖したばかりの真新しい廃墟で、周囲は森に囲まれています。

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ラジウム温泉」というその名の通り、この温泉には放射線が含まれています。
放射線は、何万年という半減期を必要とする放射能を連想させますが、正にも邪にもなり得るその水が湧き出るこの地は、ある意味聖地と言えるでしょう。

 

偶然に導かれて見つけたラジウム温泉

この温泉の廃墟をみつけたのは、半ば偶然です。そもそも八戸へ来たのは初めてで、土地勘は全くありません。

八戸を選んだのも、「古い銭湯が東北で一番多いから」という理由からでした。最初は銭湯をつかうという事を考えていたのですが、じつは東北には古い銭湯がほとんど存在しないのです。

それで一旦温泉にも手を広げたのですが、仙台在住の参加者から「漁師町である八戸には朝湯の風習がある」と聞き、急遽八戸行きを決定。昭和初期の銭湯など、朝湯を含めて3軒ハシゴしたもののピンと来ません。

予備知識ゼロの状態から現地で血眼になって、手がかりになりそうな場所を探しました。なにかに導かれるように、第33回すばる文学賞を受賞した木村友祐さんの小説『海猫ツリーハウス』のモデルになったスローカフェに足を運んだところ、店に置かれた写真集にラジウム温泉が掲載されていたのでした。

八戸初訪問にもかかわらず、わずか2日半でこんなディープな場所を発見できたなんて、自分でもびっくりしました。俗に言うセレンティピティという奴でしょうか。

aomori-miryoku.com

 

プレゼン後の反応

講師からの講評は、以下の通りでした。

「金吹沢ラジウム鉱泉」という着眼自体が大変面白く、
さらにそこに3週間のコミューンを創出するというプランが
すでにプロジェクトとして十分に魅力的なので、
あとはその縦軸に、どれだけ豊かな横軸を折り込めるか、
という感じがします。

ラジウム放射能の、効果と害、その両義性がプランの中で
浮かび上がってくる構造にもなっており、大変面白いです。

 

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かなりの予算が掛かること。
八戸市の郊外という交通不便な場所にあるため、集客が難しいこと。
企画者である自分に知名度がなく、助成を受けるのが難しい上、実現しても評価対象として扱ってもらうのが難しいこと。

そんなこともあって、プランを提出しただけでお蔵入りさせたプランです。
しかし近年、デジタルデトックスという言葉が一般的になり、すこし受け入れられる余地が出てきたかな、と感じるようになりました。

……以上、長々と書きましたが、要するに「ライター業以外にも、こんなこともしているよ」というお話でした。

今日の記事は以上です。
またのお越しを、お待ちしております!

未発表取材記事の現状と今後

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pic by engin akyurt fromPixabay

ども。檀原(@yanvalou)です。
このブログを始めた大きな理由の1つは、未発表のまま眠らせていた取材記事を発表したいと思ったからです。

一連の記事は例の「知らないうちに原稿が詐欺に流用されていた事件」の原稿なのですが、……数本はオンデマンド本に収録されたので「詐欺ではない」と強弁することも出来ますけどね……

www.yanvalou.yokohama

www.yanvalou.yokohama

 数えてみたところ、全部で73本ありました。初期の十数本は会社のPCに保存したまま取り出していなかったため、実際は90本くらい書いていたはずです。

現時点でブログに発表済みのインタビュー原稿は50本(うち5本はSと関係がないビッグイシュー販売員のシリーズ記事5本なので、実質45本)。

残りは28本ですが、うち4本は教室名などが不明で仕上げられません(取材先に関するデータが会社のGoogleアカウントに保存されたままで、転記していなかったためです)。

という訳で発表できる未発表原稿の総数は 

45+24=69本
(+発表済みホームレス記事5本、能登で書いたニューヨーク在住画家の記事1本、呉正夫さんの記事1本)

ということになります。

という訳で別枠の7本も含めて考えた場合、

69+7=76本

あと24本でちょうど100本です

最近「LOOKME」という【「取材してほしい人」と「メディア・ライター」をつなぐ取材マッチングサービス】を発見したので、これを利用して100本を目指します。

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またこれを機に、ずっと「未発表取材記事」としていたカテゴリー名を「YouWRITE(インタビュー記事)」にしたいと思います。

 

はじめて読書会に参加して、途方に暮れました

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前回のエントリー「書評は誰のためにあるのか」のつづきになります。

 

はじめて読書会に参加して、途方に暮れました

8月半ばの事になりますが、生まれて初めて読書会なるものに参加しました。

読書会では予め課題図書が決められており、イベント当日参加者が角突き合わせて侃侃諤諤(かんかんがくがく)やるようです。
主催者は本が好きな一般人。
言ってみれば社会人サークルのようなものです。

しかし僕が参加した会は、著者自ら主催し、ファンがその著作について語り合うというもの。
「会いに行けるアイドル」ならぬ「作家に会いに行ける会」でした。

「書き手自身が主催してしまうと参加者が萎縮して、言いたいことが言えない会になってしまうのではないか?」

そんな風に危惧したのですが、果たしてどうなったでしょうか。

 

当日の様子

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Photo by Patrick Tomasso on Unsplash

この作家は戦国武将ものなどの歴史小説を得意としているのですが、徐々に現代物も手がけるようになっており、その理由を「近代史の重大事件や諸問題をミステリーの手法で次世代に伝えていくため」としています。

僕がこの会に参加したのは、この作家に興味があった訳ではなく、今回の課題図書に興味があったからでした。
そういう訳なので、この作家の本を読んだのは課題図書1冊きりです。

最初に「読書会の要領」と題されたスライドが映され、読書会における作法が示されました。

その上で4つのテーブルに分かれ、各テーブル5名程度で本の感想を語り合いました。

参加者の大部分はこの会の常連のようで、その気安さもあってか、「忌憚のない意見」という奴も出ました。
いわく「犯人の目星もついてしまい、どんでん返しも1度しかない。ミステリーとしては決して出来が良い訳ではない」と。

その上で僕は、残念な点をいくつか具体的にあげてみました。
(著者名や作品名を挙げると、偉そうに批判しているように読めてしまうので、それはやめました。その一方、作品名が書いていないので読んでいてつまらないかも)

たとえば

  • ヒロインの不在。この手の話であればヒロインがいた方が話が光るはずだが、ヒロインらしいヒロインがいない
  • カーチェイスが中途半端。カーチェイスは、舞台となる街の風光明媚な名所を登場させて、おいしく演出できるチャンス。にもかかわらず、その機会をどぶに捨てている。

などなど。

しかし常連さん(=作家の忠実なファン)は、
「先生は女の人を書くのが苦手で、他の作品でもあまり出てこないんですよ」
などと、作家の癖や欠点を許容しつつ、鷹揚に構えています。
たしかにファンというのは、そういうもの。

その後テーブルごとに意見発表があったり、著作のプレゼント会があったりしましたが、一言で言うと「作家とファンの定期交流会」でした。

 

ファンと作家の交流会は、すでに戦前からあって

ここまで書いて思い出したのが、戦前の雑誌『令女界』のファン交流イベントでした。
『令女界』は1922年に創刊された雑誌で、女学生から20歳前後の「軟派な」未婚女性をターゲットにしていました。

ja.wikipedia.org


この雑誌では連載作家とファンの交流イベントを定期的に開催していたそうで、横浜在住のある老女を取材した際、脱線話として『令女界』の話をされ、イベントの写真を見せていただいたのでした。

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『令女界』ファンクラブ(RJR)横浜支部恒例、年始のかるた会(写真提供:篠原あやさん)

そういう訳で作家とファンの交流イベントは、決して新しい訳ではありません。
また講談や落語などでもファンとの交流の機会は頻繁にもたれているようですが、ファンにとって楽しいものです。

 

意義は認めるが、疑問も感じてしまい……

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Photo by Joshua Earle on Unsplash

しかしその一方で、かなり疑問も持ってしまいました。

僕は30過ぎまで舞台をやっていたのですが、演劇などの舞台には、前述のようなファンとの交流をはぐくむ機会はありません。
同業者や批評家と交流する機会は多いのですが、酒の席ではかなり辛辣な発言がぽんぽん出ます。
(おそらくその感覚は、日舞などの家元制度のある習い事に近いのではないかという気がするのですが、どうでしょうか?)

そういう世界の感覚が染みついている身としては、ぬるま湯につかっているようで、どうにも居心地が悪いのです。
舞台であれば観客席にもプロがいます。
在野の批評家や愛好者も舞台批評のコンクールで入選すれば、デビュー出来ます。ですから大学で演劇や美学を専攻した書き手たちが、劇場に隅々にまで視線を走らせ、緊張の糸を張った状態で作品に対峙します。

本の世界にはそういう制度も空気もありません。
本来書評家がやるべき仕事を行っているのは、大学(あるいは学会)に所属する研究者たちです。
彼らは一般の読者からは離れた場所におり、僕らが彼らの主義主張を目にする機会は限られています。

読書投稿サイトなどに多数の感想をアップしている書き手がいます。俗に言う「本読み」と言われる人たちです。
彼らの多くは読んでいるものが偏りすぎている気がします。
というのは、彼らにとって読書とは、自分の趣味指向を満たすことにあるからです。

そんな「本読み」が自分の期待と裏腹な作品を手に取ってしまった場合、どんな反応を示すのでしょうか?
近年の「事件」としてよく知られているのが、芥川賞作家・中村文則の『教団 X』酷評事件です。

 

『教団 X』酷評事件

この作品は『火花』で作家としての評価を確立したピースの又吉直樹らが大絶賛したせいもあり、文芸書としては異例の大増刷を達成しました。発売から半年経っても売れ続け、「文芸書分野に起こった不測の事態」とまで言われました。


教団X

しかしその一方「ふだんあまり本を読まない層」や「(小説は読むものの)芸術としての文学を読まない層」が大量になだれ込んだため、ネット上は酷評の嵐に見舞われました。

「作者の自己満足だ」
「終わり方が中途半端で期待外れ」
「スキャンダラスなだけ」

『教団 X』は共感を求めるタイプの作品ではなく、読んで考えさせるタイプのため、ストーリー小説しか読まない読者には不満が残るはずです。「楽しいから読書している」「心にしみる物語を求めている」という層は拒否反応を隠しません。

じつは今回の読書会の序盤で「あなたの面白い(好きな話)ってなんだろう」というスライドが示されました。

あなたの面白い(好きな話)ってなんだろう
あなたの「ツボ」を見つけよう。

1. 構成のうまい話、構成に工夫のある話
2. ストーリーテリングのある話(一気読みできる話)
3. 破天荒な話、予想もつかない展開の話
4. 予定調和の話、安心領域の話、気軽に楽しめる話
5. どんでん返しのある話、最後にオチのある話、決めゼリフのある話
6. 泣ける話、心の琴線に触れる話、心の美しさの話(恋愛・親子愛・友情」
7. 登場人物を応援したくなる話、登場人物に寄り添いたくなる話
8. 共感できる話、登場人物に自分を置き換えられる話
9. 主人公の生き様や死に様にカタルシス(無常観や虚しさなど)を感じる話
10. 爽快な読後感の話、ハッピーエンドの話、スカッとする話
11. 教訓的なものを得られる話、自分の生き方に影響与えてくれる話
12. テーマのしっかりした話、意義のある話

見事なくらい『教団X』には、当てはまりません。

かろうじて7と8は、当てはまるかも知れません。しかし対象となるのは主人公やヒロインではなく、サブキャラたちです。逆に言えば、主人公に感情移入するのはほとんど無理ですので、7も8も当てはまらないとも言えます。

『教団 X』に対して否定的な感想を書いた読者たちは、上の12の「ツボ」を求める人たちなのでしょう。
つまり、この読書会の参加者たちは、きっと『教団 X』を敬遠するだろうと感じました。

そして「この人たちを喜ばせるようなものを書くのが、【執筆を生業とすること】だとしたら、まっぴらごめんだ」と思いました。

帰宅後、この作家の本に対する書評を紙媒体でいくつか目にしたのですが、どれも酷かった。
お友達の作家が持ち上げ、おべんちゃらを使い、根拠も示さず「傑作だ」と持ち上げる。それこそ「はてな村」の「互助会」のようにお互いを褒め合って、「これで作品が面白そうに見えるでしょ?」というポーズを取っているのが目に見えるようです。

もし、よその読書会に参加している人たちも、この会に参加しているのと同じような人たちだとしたら?
それこそ絶望しかありませんね。

 

示唆に富む作品内容を消化できるか

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Photo by Sharon McCutcheon on Unsplash

『教団 X』のような作品は、演劇や現代美術を見慣れている層には、屈託なく読めてしまうはずです。
つまり出版と演劇(それからアート)の間には、かなり深い川が流れているのです。

その分かれ目は何かと言えば、示唆に富む作品内容を消化できるかどうか。
それから前回のエントリーに書いた「著者の役に立つ書評を書けるかどうか」という部分にある気がします。

『教団 X』は難解な作品ではありません。
ボリュームはありますが、テキスト自体は平易です。
しかし安易なカタルシスはありません。予定調和的な部分も少ないです。
壮大で虚構のような「教団X」という集団が現出したのにも関わらず、着地点は現実的。おそらく読者の思いは不完全燃焼に終わります。

 

円城塔『道化師の蝶』、小山田浩子『工場』、川上弘美『蛇を踏む』 、芥川龍之介『藪の中』、安部公房の一連の作品、リチャード・ブローティガンアメリカの鱒釣り』。

映画で言えば『去年マリエンバードで』 『24時間の情事』。


マヤ・デレン「午後の網目(Meshes of the Afternoon, 1943)」

こんな傾向の作品ばかりチョイスする奇特な読書会があれば、いろいろ教わってみたいものです。

僕は万人を楽しませる「商品」ではなく、一部の人にしか評価されなくても構わないから歴史に残る「作品」をつくりたい。

今日の記事は以上です。
前回と今回は硬すぎました。
次回からは、しばらく柔らかい内容にします!

書評は誰のためにあるのか?

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ども。檀原(@yanvalou)です。

みなさん、本はお好きですか?
読んだらどうしていますか?
家族や友人に薦めますか? 感想を語り合ったりしますか?

ネットが普及したことによって、好きな映画や本の感想を書き表すことが一般的になりました。 
投稿先はブログであったり、SNS であったり、書評投稿サービスだったり、とさまざまです。
しかし常々、僕は日本語圏における書評について、大きな違和感を感じていました。

 

日本の書評は本を売るために存在する

書評は誰のためにあるのでしょうか?
端的に言えば、出版社が本を売るために、あるいは書き手(著者ではなく、書評の書き手)の自己表現や鬱憤晴らしのためにあるのではないでしょうか?
たいへん不幸なことに、日本の現状を見る限りでは、そう言わざるを得ません。

1.商業媒体の場合

商業誌や新聞などの場合、書評は「本を売るために存在している」と感じます。
ですから、取り上げた本が該当するジャンルにおいてどのあたりに位置づけられるのか、体系的に把握することがありません。
また先行書や類書と比較して、相対的に評価することもありません。
書き手の主観的かつ絶対的な評価に留まっているのです。

本を売るための書評ですから、ネタバレは厳禁です。
これも解せません。
ほんとうに作品を評価しようと思うのであれば、ちらりとで構わないので、結末を踏まえて評価するべきです。

批評系の本では、対象となる著作の結論部分に関する賛否や精度をふくめて評価することが一般的です。
しかしネタバレが深刻なダメージにつながらないはずのノンフィクションにおいても、著者の下した結論に対する評価がないのが一般的です。これでは「本の批評(つまり書評)」として、必要要件を満たせていないのではないでしょうか?

「売るためのプロモーション」という意味において、書評の多くは著者インタビューと大差ありません。
著者本人が本の話をする(著者インタビュー)か、著者ではないものの、名前のある書き手が本の話をする(書評)という違いはあります。
しかしどちらも「売るために書いている(話している)」という点は同じです。
視線の先には、版元の存在があります。


日本には作家(書き手)のための書評がない

2.ブログや書評投稿サイト、SNS の場合

ブログや書評投稿サイト、SNS でみかける書評ですが、
読書好きなユーザーが、書評をつうじて自己実現するために書いていると感じます。

そこでは過去の読書体験や自分の人生経験が、書き手のこだわりや趣味嗜好を交えながら開陳されています。多くの場合、それはまだ見ぬ同好の士に宛てて書いているのでしょう。

趣味で描く書評には、書評と書き手の間に距離がありません。
近すぎて客観性に欠ける場合が多いのです。
近すぎるので、貶されると怒ります。
書いたものが書き手の分身のようになってしまっているからです。

そこには「著者本人が読むかも知れない」という意識はありません。


本来、批評は作り手のためにある

書評に限らず、批評全般に関して参考にしているのは辻静雄の考え方です。

辻静雄は『辻調理師学校(現・辻調理師専門学校)』の創始者で、本格的な日本料理に興味を持つ外国人であれば、ぜったいに知っている人物です。

その辻さんの生涯を描いた海老沢泰久の実録小説『美味礼讃』に次のような箇所があります。


美味礼讃

同書が手元にないので、大凡の記憶で書きますが……。

読売新聞大阪本社の社会部記者であった辻さんは、『割烹学校』を開いていた家に婿養子に入ります。フランス料理を学びますが、あくまでも料理学校の経営者なので、自分で調理する訳ではありません。
しかし料理の神髄を学ぶためにフランスに渡り、食べ歩き、現地の批評家と交流を持ちます。そして料理に関する批評が不毛であった日本で、ほとんど最初の本格的な料理評論家になるのです。

辻さんは師匠とも言えるポール・ボキューズに、「料理評論家はなぜ必要なのか」と尋ねます。
するとポキューズは
「一流の料理人は忙しく、ほとんど自分の厨房から出られない。だから料理界の新しいトレンドに触れる機会がない。気がつくと、時代遅れになってしまう。
一流の料理人ほど置いてけぼりになりやすいという矛盾。これを解消するのが批評家の存在意義だ」。

 

つまり批評家は消費者のためではなく、料理人のために存在するというのです。

これは書評においても言えることではないでしょうか?

書き手にとって、自分の本の客観的な評価はむずかしいものです。
その価値判断をした上で、同業他者の傾向と見比べたり、時代のトレンドを読んで解説してみせたり。

 

著者が知らないこと、気がつかずにいることを提示するのが批評家の役割でしょう。


広告塔になって「おもしろいですよ」と吹聴することは、批評の本分ではないはずです。

文芸評論家の友田健太郎さんが書いてくれた僕の本の書評は、割とこの方向性に近いと思います。

note.mu


ただ惜しむらくは、友田さんの得意分野ではないため、類書や関連書と比較して論じられていないことです。

逆にライターの本橋信宏さんの書評は自己表現型です。

note.mu

本橋さんの書いたものの方が取っつきやすく、万人向けだと言えます。一般の方には馴染みが薄いかも知れませんが、本橋さんは現在ネットフリックスで話題になっている『全裸監督』(主演・山田孝之)の原作者です。「宣伝効果」という意味では本橋さんに書いて頂くのが正解と言えます。

www.netflix.com

しかし書評としてあるべき姿は、友田さんの方でしょう。
「商業的成功や万民からの称賛よりも、知識人や玄人からの評価」を狙って書いた本なので、尚更です。
とは言え、本のテーマのせいもあるのでしょうけれど、知識人は端っから関心を持ってくれない模様。
安全策で本橋さんにもお願いしてしまうという自分の弱腰が、哀しいです。

ついでなので、最近読んで面白かった書評について。
書評というよりエッセイといった方があたっていますが、リンク先にある村田沙耶香さんの『コンビニ人間』の書評が読ませます。
書き手は日本語が分からない日系米国人。来日時の印象と自分のアイデンティティ村田沙耶香さんの実際の印象、そして『コンビニ人間』のテーマを絡ませて書いています。日本では見かけないタイプの「書評」です。
英語で書かれていますが、需要があれば暇なときに抄訳したいと思います。

catapult.co

(次回に続く)

 

 

 

 

 

原爆投下の物語はどんどん語りやすく、単純化されている

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ども。檀原(@yanvalou)です。

今日は長崎に原爆が投下された日でしたね。
近年、広島や長崎の被爆後の状況に関して、立て続けにユニークな研究が発表されています。

 

被爆瓦礫を進駐軍に売りつけた「アトム書房」

まず2012年の『季刊レポ』第10号への寄稿を皮切りに、山下陽光さんが調べ上げた「アトム書房」の一連の記事。

https://yutakasugimoto-blog.tumblr.com/post/27996578101

yutakasugimoto-blog.tumblr.com

広島で原爆が落とされてからまもなく、何もない焼け野原の原爆ドームの近くで開業された一軒の書店。

店頭に並んでいるのはわずかな本のほかに、焼け爛れたビンや瓦といった被爆した瓦礫。
それを進駐軍兵士がお土産として買っていったという!
原爆を投下した当の米兵に、その瓦礫を売りつけるという逞しさ。
奇しくも看板は『Bookseller Atom』と英語で書かれていたそうで、進駐軍を目当てにしていたのかも知れません。

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爆心地に立てられた謎の矢印

さて今年の春先、横浜の BankART Station で小田原のどかさんというアーチストの『↓(2019)』という作品が展示されました。

こちらは1946〜48年に長崎市の爆心地点に設置された「原子爆弾中心地」と記された標柱をモチーフにしたもの。
当時はグーグル・マップのマーカーのようなものが爆心地に設置されていたのです。
このページのトップ写真がそれで、米兵たちが記念撮影しています。

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なぜこのような標柱が立てられたかと言えば、当時は進駐軍の政策により、戦死者を慰める慰霊塔の類が建てられなかったからだそうです。
だからこういうマーカーのようなものしかつくれなかったのでした。

現在に至るまで、日本には戦死者を弔う国レベルの慰霊塔はありません。
かろうじて戦死した軍人を祀る靖国神社があるくらい。
あとは「ひめゆりの塔」とかローカルなものが、時折見られるくらい。
小田原さんは、この標柱を「戦後日本の公共空間の彫刻の起点」と考えているそうです。

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一方、有名な長崎の「平和祈念像」ですが、じつは作者の北村西望は戦時中、戦意高揚彫刻を制作していたそうです。
そんな彫刻家が、平和の彫刻制作を依頼されたという皮肉。

たいていの場合、平和祈念彫刻は女性像か、男女ペアと相場が決まっています。
にも関わらず、男性の像というのは考えてみれば変です。

実際、小説家の堀田善衛はこの像を「ファシズムを表象している」と書いているそうです(典拠:堀田善衛「間奏曲 人と馬」:朝日新聞社・1995年刊『美しきもの見し人は』に収録)。

原爆の物語は語りやすくするため徐々に単純化され、角を落として語りつがれてきたのでしょう。
しかし単純化されているのは、戦争にまつわることだけでしょうか?
なんだか考えさせられる話です。

今日の記事は以上です。
またのお越しを、お待ちしております!

どうして無断で映画を撮られると無料なんでしょうか?

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ども。檀原(@yanvalou)です。

突然ですが、林伸次さんの2017年12月12日のnote「どうして取材をされる人は無料なんでしょう」を読んで、

どうして無断で映画を撮られるときも無料なんでしょう?

と思いました。

 

業界に「取材を受けるときは無料」という慣習がある

note.mu

インタビュー相手に謝礼を払うべきか」はうちのブログのトップアクセス数を稼いでいる記事です。
取材時の謝礼問題はライターの入門書に書かれていませんので、皆さん興味があるのでしょう。

www.yanvalou.yokohama

www.yanvalou.yokohama

林さんが言うように

その2時間のうちの1時間を使って、さらに他ではちょっと入手できないような情報を教えて、それでどうして「無料」なのか不思議なんです。

どういうわけか「取材」ということになると、「無料」って決まってるんです。

 ※

実は記事や番組を作っている側の事情も知っていまして、そんな「5000字2万円の記事」のために取材した人、全員に1万円とか渡せないっていうのはわかってはいるんです。

というのが実情です。

 

映画の場合はどうなのか?

しかしドキュメント映画の撮影の場合は、どうなんでしょう?
自分が関わったイベントが、2回ばかり無断で撮影された経験があります。

2度とも撮影クルーが事前連絡なしにやって来ました。
そうして映画の企画概要(撮影対象は見ていれば分かりますが、完成目標となる時期やテーマなどは不明)の説明もなく、挨拶もありませんでした。
さすがに撮影対象となる人物には「よろしくお願いします」的なやりとりはありましたが、イベント運営者であるこちら側のことは無視。
どうやら「写る人にだけ話をしておけば良い」と考えているようなのです。
さすがに見兼ねて話をしに行きました。

2回のうち1回は知人が主催者。
もう1回は自分が主催者です。

自分が関わった方に関しては大赤字で、地元自治体から助成金を受けている状態でした。事前に分かっていれば「撮影協力金」を徴収したでしょう。その程度の「お布施」があっても罰は当たらないと思います。

フリーライドで利益を出されては、堪ったものではありません

撮影チャンスは1度だけです。
飛び込みのような形でやって来て、断られたらどうするつもりだったのでしょう?
権利関係の話は後で出来ると思ったので、とりあえず撮影は黙認しました(許可してはいません)。

 

自分たちの権利しか頭にない人たち

しかし後日「このイベントの企画者は私たちです。イベントの企画制作者である私たちにも著作権が発生します。私たちは著作権の権利者です。ですから撮影した映像を見せてもらえませんか? それから映像素材の複製を下さい。表に出すつもりはありませんが、記録として内輪で保存しておきたいので」とお願いしたところ、

「これはうちの著作物ですから、無理です」とにべもなく断られました。
仮に映画の完成後であったとしても、編集前のものは見せられないというのです。

出版やウェブメディアなど文字媒体であれば、大抵の場合、事前に記事の確認ができますし、写真も見せてもらえます。一部のメディア(新聞など)は「報道の自由、中立性」などを盾にして、事前確認を拒んできます。しかしそれは例外的な事例です。

しかし映画の場合は、勝手が違うようです。
何様のつもりなんでしょうね?
そもそも無断で撮影しておいて、侘びの一つもないというのは社会人として異様です

僕は「イベントの主催者権限」を発動して、うちのイベントを撮影した部分の使用は禁止してやりました。

まだこの映画は公開されていません。

 

【後日談】

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映像を使用禁止にして2、3ヶ月してから、ウッドストックの主催者のエピソードを知りました。
ご存じの通り、ウッドストックは1969年に行われた史上最大規模のフリーコンサートです。
愛と平和、反戦を主張するヒッピーや若者らが約40万人が集りました。

よく知られるとおり、当初は有料だったのですが、観客が集まりすぎたため急遽無料にしました。
当然のことながらイベントは大赤字でした。

しかしコンサートのライブ音源や記録映画が大ヒットしたため、最終的に主催者は巨額の利益を得たというのです。
フリーミアムの典型例と言えましょうか。

この話を聞いた僕は、「そうか。イベントは赤字でもコンテンツの二次利用で赤字を埋めるという手があるのか」と感激しました。

出版と異なり、映画の場合は動く予算が桁違いです。
前払いは出来なくとも、興行収入から後払いすることも可能なはずです。
そこで件の映画製作会社にコンタクトを取りました。

この映画は国内の映画館や DVD、配信サイトで公開するのみならず、海外でも上映する可能性が少なくありません。
そこで臆することなく「協力費」を要請しました。

「こちらは赤字で情熱だけをエネルギーにしています。そこにフリーライドしようというのは、アンフェアじゃないでしょうか? 1度お断りしましたが、フェアな扱いをしていただければ、使用を許可しますよ」と。

あっさり断られましたね。

きっと映画・映像関係のひとたちは、黙って撮られる羊のような人物しか相手にしないのでしょう。

ライター業が、どうしようもないくらい低レベルな仕事に感じて仕方がなくなるとき

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ども。檀原(@yanvalou)です。

4/18(2週間も前だ!)のことですが、ゲーテ・インスティチュートで「バウハウスダンス」なるもののワークショップを受講してきました。

www.facebook.com

僕はダンスに興味があるのですが、バウハウスダンスはずっと謎のベールに包まれた存在でした。とりあえず写真を見てください。
どんな踊りを踊るのか、さっぱり見当がつかない……!

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桑沢デザイン研究所official fbページより

madamefigaro.jp

いまは YouTube で調べればなんでも分かるのかも知れませんが、本や写真しかなかった一昔前は、それこそ謎でした。百歩譲って動きが分かったとしても、「どういうルールで振りを付けているのか」ということまでは分かりません。そこでたまたま見つけたこのワークショップに参加した訳です。

動きそのものは単純なので、ググって動画を観て下さい。
振りのルールは……これを読んでいる方は興味がないでしょうから、割愛。個々人が単純な動きを強弱や方向を変えるなどしながら、延々繰り返しているだけです。

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桑沢デザイン研究所の学生による稽古の様子

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桑沢デザイン研究所の学生によるパフォーマンス(twitterより。リンク切れ?)

今回のエントリーで書きたいことはこのダンスの話ではないので、ダンスの話はこれくらいにして。

ワークショップの翌日、バウハウス100周年を記念したバウハウスダンスの新作に関わった二人のアーチストによるディスカッションが行われました。
出演は、舞台音楽を手がけた今井慎太郎(作曲家/サウンドアーティスト)と装飾デザイナーのスーザン・ピーチ(宝飾関係が専門らしい)、そしてマリアンネ・ブラント国際コンクール代表のリンダ・ペンセが司会という顔ぶれです。この三人による議論は、ほんとうに刺激的でした。

アートの世界はいつもそうですが、作品製作に至るまでの議論がほんとうに深く、多岐に渡るのです。僕の目から見て作品そのものは大して面白くなくても、そこに到達するまでのプロセスを聞くと面白いことが多いように思えます。

このダンスは2019年のマリアンネ・ブラント国際コンクール「私のすべてはガラスできている-マリアンネ・ブラントと今日のガラス・アート」に関連しているため、衣裳も音楽もガラスをモチーフにしていました(*註)。

このとき話し合われたことを箇条書きにしていくと

  • 衣装と装飾品の違いは何か?
  • ツタンカーメンの時代のデザートガラス(砂漠のガラス)
    →当時のガラスは砂漠に落ちた落雷で生まれた偶然の産物。つまり超自然的な宝物として扱われていたのでは。
    →同じガラスといえども、工場でオートマチックに作られた現代のガラスとはまったくの別物。価値も価格もちがう。
  • ガラスは砂糖に似ている
    →砂糖の結晶とガラスの分子構造はよく似ている。
    →色も似ている
    →どちらも壊れやすい
    →溶けやすい
    →日本の砂糖菓子の細工は世界でも類を見ない。砂糖でガラスを表現出来ないか?
    →ガラスの手触り、肌触りを楽しんでもらうだけでなく、もっとダイレクトにガラスと触れ合ってもらうため、ガラスと砂糖でできた宝石をつくった(この宝石は食べられる。口の中で溶ける)
  • ガラスというと「透明感」がイメージされるが、600年前のガラスは透明ではない
  • 「透明感のある音」という概念は日本語圏だけでしか通じない。すくなくともドイツ人に「透明感のある音」を説明しようと試みても、「音には色がない」と一蹴されてしまう。「高く澄んだ音」と言ってもうまく伝わらない。
  • 風鈴の音は欧州人には涼しく聞こえない
  • ガラスには硬く重いイメージもある。澄んだ音ばかりでなく、ゴリゴリというガラスの塊同士を擦り合わせる音もつかいたい。
  • 近代はガラスの時代。
    ガラスは「冷たさ」「冷酷さ」の象徴。
    冷たいこころと冷たく透明なガラス
  • 欧州におけるガラスのイメージ
    →距離感
    →技術
  • 一方、日本人は曇りガラスが好き。曇りガラスからは冷酷さは感じ取れない。ぬくもりさえ感じさせる。
  • ガラスの対義語は何か?

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バウハウスと所縁の深いブルーノ・タウトのガラスの家(1914年)

 *註 ガラスはバウハウスにとって重要な素材だった。建築においては、ガラスは衛生面、合理性から尊重されていた。また実験的な舞台芸術においては、人間と技術の交錯点、インスピレーションの源、隠喩的でユートピア的な素材として重用された。

ざっと書くと、以上のようなことが話し合われました。
時間が50分くらいしかなかったので時間切れになってしまったのですが、時間さえあれば、あと2、3時間続きそうな感じでした。

「書く」「考える」「つくる」と言っても、ライター業では上記のディスカッションのような深いレベルで思索を巡らすことは、まずありません。

レベルの高い書き手であれば「砂糖の結晶とガラスの分子構造はよく似ている」というところまでたどり着くこともあるかも知れません。
しかし砂糖をガラスに見立てて、「食べられるアクセサリーを作る」という領域にはたどり着けないでしょう。

同様に「デザートガラス」という発想も出てくるかどうか。

アーチスト同士のディスカッションに臨席すると、いつもライターの世界が低レベルに思え、そこに所属している自分がバカみたいに思えます。

みなさんはどうでしょうか?
自分がやっていることがバカみたいに思えるときがありますか?

今日の記事は以上です。
またのお越しを、お待ちしております!