ども。檀原(@yanvalou)です。
4/18(2週間も前だ!)のことですが、ゲーテ・インスティチュートで「バウハウスダンス」なるもののワークショップを受講してきました。
僕はダンスに興味があるのですが、バウハウスダンスはずっと謎のベールに包まれた存在でした。とりあえず写真を見てください。
どんな踊りを踊るのか、さっぱり見当がつかない……!
いまは YouTube で調べればなんでも分かるのかも知れませんが、本や写真しかなかった一昔前は、それこそ謎でした。百歩譲って動きが分かったとしても、「どういうルールで振りを付けているのか」ということまでは分かりません。そこでたまたま見つけたこのワークショップに参加した訳です。
動きそのものは単純なので、ググって動画を観て下さい。
振りのルールは……これを読んでいる方は興味がないでしょうから、割愛。個々人が単純な動きを強弱や方向を変えるなどしながら、延々繰り返しているだけです。
今回のエントリーで書きたいことはこのダンスの話ではないので、ダンスの話はこれくらいにして。
バウハウス開校から、今年で100年! pic.twitter.com/Xyt2ZtwIDe
— 高橋正明 (@buzzmeak) May 1, 2019
ワークショップの翌日、バウハウス100周年を記念したバウハウスダンスの新作に関わった二人のアーチストによるディスカッションが行われました。
出演は、舞台音楽を手がけた今井慎太郎(作曲家/サウンドアーティスト)と装飾デザイナーのスーザン・ピーチ(宝飾関係が専門らしい)、そしてマリアンネ・ブラント国際コンクール代表のリンダ・ペンセが司会という顔ぶれです。この三人による議論は、ほんとうに刺激的でした。
アートの世界はいつもそうですが、作品製作に至るまでの議論がほんとうに深く、多岐に渡るのです。僕の目から見て作品そのものは大して面白くなくても、そこに到達するまでのプロセスを聞くと面白いことが多いように思えます。
このダンスは2019年のマリアンネ・ブラント国際コンクール「私のすべてはガラスできている-マリアンネ・ブラントと今日のガラス・アート」に関連しているため、衣裳も音楽もガラスをモチーフにしていました(*註)。
このとき話し合われたことを箇条書きにしていくと
- 衣装と装飾品の違いは何か?
- ツタンカーメンの時代のデザートガラス(砂漠のガラス)
→当時のガラスは砂漠に落ちた落雷で生まれた偶然の産物。つまり超自然的な宝物として扱われていたのでは。
→同じガラスといえども、工場でオートマチックに作られた現代のガラスとはまったくの別物。価値も価格もちがう。 - ガラスは砂糖に似ている
→砂糖の結晶とガラスの分子構造はよく似ている。
→色も似ている
→どちらも壊れやすい
→溶けやすい
→日本の砂糖菓子の細工は世界でも類を見ない。砂糖でガラスを表現出来ないか?
→ガラスの手触り、肌触りを楽しんでもらうだけでなく、もっとダイレクトにガラスと触れ合ってもらうため、ガラスと砂糖でできた宝石をつくった(この宝石は食べられる。口の中で溶ける) - ガラスというと「透明感」がイメージされるが、600年前のガラスは透明ではない
- 「透明感のある音」という概念は日本語圏だけでしか通じない。すくなくともドイツ人に「透明感のある音」を説明しようと試みても、「音には色がない」と一蹴されてしまう。「高く澄んだ音」と言ってもうまく伝わらない。
- 風鈴の音は欧州人には涼しく聞こえない
- ガラスには硬く重いイメージもある。澄んだ音ばかりでなく、ゴリゴリというガラスの塊同士を擦り合わせる音もつかいたい。
- 近代はガラスの時代。
ガラスは「冷たさ」「冷酷さ」の象徴。
冷たいこころと冷たく透明なガラス - 欧州におけるガラスのイメージ
→距離感
→技術 - 一方、日本人は曇りガラスが好き。曇りガラスからは冷酷さは感じ取れない。ぬくもりさえ感じさせる。
- ガラスの対義語は何か?
*註 ガラスはバウハウスにとって重要な素材だった。建築においては、ガラスは衛生面、合理性から尊重されていた。また実験的な舞台芸術においては、人間と技術の交錯点、インスピレーションの源、隠喩的でユートピア的な素材として重用された。
ざっと書くと、以上のようなことが話し合われました。
時間が50分くらいしかなかったので時間切れになってしまったのですが、時間さえあれば、あと2、3時間続きそうな感じでした。
「書く」「考える」「つくる」と言っても、ライター業では上記のディスカッションのような深いレベルで思索を巡らすことは、まずありません。
レベルの高い書き手であれば「砂糖の結晶とガラスの分子構造はよく似ている」というところまでたどり着くこともあるかも知れません。
しかし砂糖をガラスに見立てて、「食べられるアクセサリーを作る」という領域にはたどり着けないでしょう。
同様に「デザートガラス」という発想も出てくるかどうか。
アーチスト同士のディスカッションに臨席すると、いつもライターの世界が低レベルに思え、そこに所属している自分がバカみたいに思えます。
みなさんはどうでしょうか?
自分がやっていることがバカみたいに思えるときがありますか?
今日の記事は以上です。
またのお越しを、お待ちしております!