メケメケ

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町工場や倉庫がひしめく運河のほとりから、セカイに向けて書き綴るブログ。

はじめて読書会に参加して、途方に暮れました

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前回のエントリー「書評は誰のためにあるのか」のつづきになります。

 

はじめて読書会に参加して、途方に暮れました

8月半ばの事になりますが、生まれて初めて読書会なるものに参加しました。

読書会では予め課題図書が決められており、イベント当日参加者が角突き合わせて侃侃諤諤(かんかんがくがく)やるようです。
主催者は本が好きな一般人。
言ってみれば社会人サークルのようなものです。

しかし僕が参加した会は、著者自ら主催し、ファンがその著作について語り合うというもの。
「会いに行けるアイドル」ならぬ「作家に会いに行ける会」でした。

「書き手自身が主催してしまうと参加者が萎縮して、言いたいことが言えない会になってしまうのではないか?」

そんな風に危惧したのですが、果たしてどうなったでしょうか。

 

当日の様子

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Photo by Patrick Tomasso on Unsplash

この作家は戦国武将ものなどの歴史小説を得意としているのですが、徐々に現代物も手がけるようになっており、その理由を「近代史の重大事件や諸問題をミステリーの手法で次世代に伝えていくため」としています。

僕がこの会に参加したのは、この作家に興味があった訳ではなく、今回の課題図書に興味があったからでした。
そういう訳なので、この作家の本を読んだのは課題図書1冊きりです。

最初に「読書会の要領」と題されたスライドが映され、読書会における作法が示されました。

その上で4つのテーブルに分かれ、各テーブル5名程度で本の感想を語り合いました。

参加者の大部分はこの会の常連のようで、その気安さもあってか、「忌憚のない意見」という奴も出ました。
いわく「犯人の目星もついてしまい、どんでん返しも1度しかない。ミステリーとしては決して出来が良い訳ではない」と。

その上で僕は、残念な点をいくつか具体的にあげてみました。
(著者名や作品名を挙げると、偉そうに批判しているように読めてしまうので、それはやめました。その一方、作品名が書いていないので読んでいてつまらないかも)

たとえば

  • ヒロインの不在。この手の話であればヒロインがいた方が話が光るはずだが、ヒロインらしいヒロインがいない
  • カーチェイスが中途半端。カーチェイスは、舞台となる街の風光明媚な名所を登場させて、おいしく演出できるチャンス。にもかかわらず、その機会をどぶに捨てている。

などなど。

しかし常連さん(=作家の忠実なファン)は、
「先生は女の人を書くのが苦手で、他の作品でもあまり出てこないんですよ」
などと、作家の癖や欠点を許容しつつ、鷹揚に構えています。
たしかにファンというのは、そういうもの。

その後テーブルごとに意見発表があったり、著作のプレゼント会があったりしましたが、一言で言うと「作家とファンの定期交流会」でした。

 

ファンと作家の交流会は、すでに戦前からあって

ここまで書いて思い出したのが、戦前の雑誌『令女界』のファン交流イベントでした。
『令女界』は1922年に創刊された雑誌で、女学生から20歳前後の「軟派な」未婚女性をターゲットにしていました。

ja.wikipedia.org


この雑誌では連載作家とファンの交流イベントを定期的に開催していたそうで、横浜在住のある老女を取材した際、脱線話として『令女界』の話をされ、イベントの写真を見せていただいたのでした。

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『令女界』ファンクラブ(RJR)横浜支部恒例、年始のかるた会(写真提供:篠原あやさん)

そういう訳で作家とファンの交流イベントは、決して新しい訳ではありません。
また講談や落語などでもファンとの交流の機会は頻繁にもたれているようですが、ファンにとって楽しいものです。

 

意義は認めるが、疑問も感じてしまい……

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Photo by Joshua Earle on Unsplash

しかしその一方で、かなり疑問も持ってしまいました。

僕は30過ぎまで舞台をやっていたのですが、演劇などの舞台には、前述のようなファンとの交流をはぐくむ機会はありません。
同業者や批評家と交流する機会は多いのですが、酒の席ではかなり辛辣な発言がぽんぽん出ます。
(おそらくその感覚は、日舞などの家元制度のある習い事に近いのではないかという気がするのですが、どうでしょうか?)

そういう世界の感覚が染みついている身としては、ぬるま湯につかっているようで、どうにも居心地が悪いのです。
舞台であれば観客席にもプロがいます。
在野の批評家や愛好者も舞台批評のコンクールで入選すれば、デビュー出来ます。ですから大学で演劇や美学を専攻した書き手たちが、劇場に隅々にまで視線を走らせ、緊張の糸を張った状態で作品に対峙します。

本の世界にはそういう制度も空気もありません。
本来書評家がやるべき仕事を行っているのは、大学(あるいは学会)に所属する研究者たちです。
彼らは一般の読者からは離れた場所におり、僕らが彼らの主義主張を目にする機会は限られています。

読書投稿サイトなどに多数の感想をアップしている書き手がいます。俗に言う「本読み」と言われる人たちです。
彼らの多くは読んでいるものが偏りすぎている気がします。
というのは、彼らにとって読書とは、自分の趣味指向を満たすことにあるからです。

そんな「本読み」が自分の期待と裏腹な作品を手に取ってしまった場合、どんな反応を示すのでしょうか?
近年の「事件」としてよく知られているのが、芥川賞作家・中村文則の『教団 X』酷評事件です。

 

『教団 X』酷評事件

この作品は『火花』で作家としての評価を確立したピースの又吉直樹らが大絶賛したせいもあり、文芸書としては異例の大増刷を達成しました。発売から半年経っても売れ続け、「文芸書分野に起こった不測の事態」とまで言われました。


教団X

しかしその一方「ふだんあまり本を読まない層」や「(小説は読むものの)芸術としての文学を読まない層」が大量になだれ込んだため、ネット上は酷評の嵐に見舞われました。

「作者の自己満足だ」
「終わり方が中途半端で期待外れ」
「スキャンダラスなだけ」

『教団 X』は共感を求めるタイプの作品ではなく、読んで考えさせるタイプのため、ストーリー小説しか読まない読者には不満が残るはずです。「楽しいから読書している」「心にしみる物語を求めている」という層は拒否反応を隠しません。

じつは今回の読書会の序盤で「あなたの面白い(好きな話)ってなんだろう」というスライドが示されました。

あなたの面白い(好きな話)ってなんだろう
あなたの「ツボ」を見つけよう。

1. 構成のうまい話、構成に工夫のある話
2. ストーリーテリングのある話(一気読みできる話)
3. 破天荒な話、予想もつかない展開の話
4. 予定調和の話、安心領域の話、気軽に楽しめる話
5. どんでん返しのある話、最後にオチのある話、決めゼリフのある話
6. 泣ける話、心の琴線に触れる話、心の美しさの話(恋愛・親子愛・友情」
7. 登場人物を応援したくなる話、登場人物に寄り添いたくなる話
8. 共感できる話、登場人物に自分を置き換えられる話
9. 主人公の生き様や死に様にカタルシス(無常観や虚しさなど)を感じる話
10. 爽快な読後感の話、ハッピーエンドの話、スカッとする話
11. 教訓的なものを得られる話、自分の生き方に影響与えてくれる話
12. テーマのしっかりした話、意義のある話

見事なくらい『教団X』には、当てはまりません。

かろうじて7と8は、当てはまるかも知れません。しかし対象となるのは主人公やヒロインではなく、サブキャラたちです。逆に言えば、主人公に感情移入するのはほとんど無理ですので、7も8も当てはまらないとも言えます。

『教団 X』に対して否定的な感想を書いた読者たちは、上の12の「ツボ」を求める人たちなのでしょう。
つまり、この読書会の参加者たちは、きっと『教団 X』を敬遠するだろうと感じました。

そして「この人たちを喜ばせるようなものを書くのが、【執筆を生業とすること】だとしたら、まっぴらごめんだ」と思いました。

帰宅後、この作家の本に対する書評を紙媒体でいくつか目にしたのですが、どれも酷かった。
お友達の作家が持ち上げ、おべんちゃらを使い、根拠も示さず「傑作だ」と持ち上げる。それこそ「はてな村」の「互助会」のようにお互いを褒め合って、「これで作品が面白そうに見えるでしょ?」というポーズを取っているのが目に見えるようです。

もし、よその読書会に参加している人たちも、この会に参加しているのと同じような人たちだとしたら?
それこそ絶望しかありませんね。

 

示唆に富む作品内容を消化できるか

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Photo by Sharon McCutcheon on Unsplash

『教団 X』のような作品は、演劇や現代美術を見慣れている層には、屈託なく読めてしまうはずです。
つまり出版と演劇(それからアート)の間には、かなり深い川が流れているのです。

その分かれ目は何かと言えば、示唆に富む作品内容を消化できるかどうか。
それから前回のエントリーに書いた「著者の役に立つ書評を書けるかどうか」という部分にある気がします。

『教団 X』は難解な作品ではありません。
ボリュームはありますが、テキスト自体は平易です。
しかし安易なカタルシスはありません。予定調和的な部分も少ないです。
壮大で虚構のような「教団X」という集団が現出したのにも関わらず、着地点は現実的。おそらく読者の思いは不完全燃焼に終わります。

 

円城塔『道化師の蝶』、小山田浩子『工場』、川上弘美『蛇を踏む』 、芥川龍之介『藪の中』、安部公房の一連の作品、リチャード・ブローティガンアメリカの鱒釣り』。

映画で言えば『去年マリエンバードで』 『24時間の情事』。


マヤ・デレン「午後の網目(Meshes of the Afternoon, 1943)」

こんな傾向の作品ばかりチョイスする奇特な読書会があれば、いろいろ教わってみたいものです。

僕は万人を楽しませる「商品」ではなく、一部の人にしか評価されなくても構わないから歴史に残る「作品」をつくりたい。

今日の記事は以上です。
前回と今回は硬すぎました。
次回からは、しばらく柔らかい内容にします!