メケメケ

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町工場や倉庫がひしめく運河のほとりから、セカイに向けて書き綴るブログ。

バックパッカー女子大生が学生結婚した結果、いつの間にかアジアを股にかけるスーパーフリーランサーになっていた話(2)

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Photo by Sasin Tipchai from Pixabay

学生結婚をした大阪人のミカエさん(仮名 1966年生まれ)の話の第2回です。
第1回はこちらからどうぞ。

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www.yanvalou.yokohama

 

社会に出る前に二人欲しかった

さて女子生徒が就職活動するとき脳裏を過(よ)ぎることの一つに、結婚・出産とキャリアの中断問題がある。この先社会がどう変化するか分からないが、少なくとも今まではこれはほとんど女性にだけ降りかかる問題だった。

学生結婚すると就活の時点で既に子供がいるケースが少なくない。スタートの時点で他の大多数の学生と異なる世界にいるわけだが、その点をミカエさんはどう考えたのだろうか。

  

〈あたしは二人欲しかったんです。まともに就職活動やったところでバブルも終わりかけてた頃だし、出産休暇や育児休暇がとれるような企業に入れるとは思っていませんでした。そうすると二人目の出産のときに辞めないといけないじゃないですか。

大学卒業しました。就職しました。仕事し始めたところで、また妊娠、また出産ていうたら、また就活せなあかん。でも大学におったら「すいませーん、休みたいんですけど。出産なんです」ってやったら「ああ、はいはい」みたいな感じで学費もタダになって、学割も使いながら休めて簡単じゃないですか。だから学生のうちに二人目も産んでおこうと思ったんですよ〉

 
自分が働くことになったら、いずれ子供たちだけで留守番することになるだろう。実家は工場で両親は留守がちだったが、ミカエさんには妹がいたから留守番できた。その時の経験から「もうひとり絶対おった方がええな」と思った。

だから一人目は「できちゃった」だったが、二人目は綿密に計算して産んだ。

保育園のスタートは大抵4月である。二人目が0歳児のときくらいは家で育てたいと思っていたが、それをやってしまうと「お母さん、自宅で面倒見れるじゃないですか」となって次男ばかりか長男も保育園に預けられなくなってしまう。そこでできるだけ4月か5月に産もうと考え、計算ずくで出産計画を立てた。その結果、少し遅くなったが6月に第二子が誕生した。今度も男の子で3歳離れていた。

  

〈2回目の休学を申請しに行ったとき、学生部のオッちゃんに「休学は2回でいっぱいいっぱいやから、あとは卒業してから産みや」って言われましたね(笑)〉

 

長男を産んだときは23歳だったので保育園では若いお母さんだった。しかし次男の時はもう26歳になっていたので、同年代の母親を見かけることが多かった。とは言え彼女はいまだ学生である。2年遅れて入学したり2回休学するなどしたものの、まだ大学生だった。

  

〈学生主婦をしていると生活が激変しますね。当時はワープロやったから、卒論書こうと机の上にワープロ拡げた途端にウチの子らが触りに来てね、むちゃくちゃにされるし。あたし、夜中に寝静まってから卒論書いてましたよ。

結婚だけで出産していなかったら戸籍入っているかどうかの違いだけで、同棲カップルと変わらなかったでしょう。ふつうにバイトしながら学校行ってたかなと思うんですけど。小さい子供がいる家で卒論を書くということもなかったでしょうし〉

  

そんな状態でも学業と子育てを両立出来たのは、両親のバックアップのお陰だった。自分も若いし双方の両親も若い。子供を見るメンバーがみんな若い。だから体力がある。もし彼女が10年遅く出産していたら、そのとき父親は60である。父親は子供たちを自転車に乗せて遊びに連れて行ってくれたり、一緒に野球をしたりしてくれたが、60歳だったら難しかったかもしれない。ミカエさんも学業や仕事をしながら保育園の送り迎えをするのが、もっと大変だっただろう。

なんとか乗りきったのは親も自分も若かったからや」。

ミカエさんはそんな風に言うのだった。

 

みそから絞り出すようにして仕事のことを考えた

結局大学を卒業するのに8年かかった。

「本当は大学院に行きたかったんですけど、とてもそういう状況じゃなくなったので進学は諦めました」。

働くことにしたが、保育園の送り迎えがあるので残業は出来ない。「とりあえず近所の会社にしとこかな」と思って、地元の砂糖工場の営業事務に面接を受けに行った。たまたま部長が同級生の友人だった縁もあり、スパッと入社が決まった。

しかしアクティブな彼女には、その仕事はつまらなすぎた。入社したときは28歳。30になってもここにいたら、一生ここから抜けられなくなりそうな気がした。彼女は初めて仕事のことを真剣に考えたのだった。

  

〈あたしが結婚した頃は、バブル真っ盛りでみんなめっちゃいいとこ就職してました。同級生はそれこそ競合他社の試験の日に、引き留め工作で温泉とか連れて行かれるような売り手市場。

だけど自分は旅行に行きたいから就職もせずバイトばかりしていて「日本の会社でちゃんと働くなんて無理」って思ってました。夫に出会うまでは「大学卒業したら海外に逃げちゃおう」なんて考えてたのに、子供が出来て日本にずっとおらなあかんとなった。そんな未来は考えてなかったから、どうしようと。

やりくりすればあたしが働かなくてもやっていけたと思うんですけど、専業主婦は全然楽しめなかった。公園のママ友たちも苦手やったし、これは働くしかないなと思いました。子供を保育園に預けながら、実家や旦那のお母さんに助けてもらったりしながら働くことにも馴れてきて、初めて本気で働くという選択肢が出てきて。自分がバリバリ働くようになるなんて想像したことありませんでしたが、大阪で夫や息子と一緒に暮らしながら、お金がかからず、おもしろそうなことって仕事しか思いつかなかったんです〉

 

そのとき絞り出すようにして考え出したのが市場調査の仕事だった。「調査してレポート書いて」という一連のフローが卒業論文の執筆と似ていると感じ、これなら出来そうだという気がした。ミカエさんは結婚前に調査会社でアルバイトをした経験があった。当時のバイト仲間の一人に連絡を取ったところ、同期の一人がそのままその会社に就職していることが分かった。

「あたしも就職したいんやけど」と伝えたところ、バイト時代の上司が専務に昇進しており「今は募集してないけど、ええか。おいでぇな」で常勤のアルバイトにしてもらった。そこから正社員に昇格しそのまま再就職を果たした。実際にやってみたところ、仕事は意外なほど楽しくてやりがいもあり、結局いまに至るまで続ける一生の仕事になった。

会社は最初から子供のことを知っていたので、その点は気が楽だった。残業もそれなりにあったが、両方の実家と一緒に育てることで乗りきることが出来た。

  

賞味期限の切れた結婚

市場調査の業界には女性のフリーランサーが多い。ミカエさんも30歳で正社員に昇格すると2、3年後に独立した。まだ子供たちも小さいし、実家の母に掛ける負担も大きい。フリーになって時間の自由が利く立場になろう、と考えたのだ。と言ってもはじめのうちは、古巣の会社が忙しくなると駆けつける応援要員のような形だった。

しかし折角だからと営業してみたところ、「女性の助けがいるねん」という女性向けの商品を開発している男ばかりの会社を引き当てた。双方のタイミングが噛み合う形で、そこからリピートで受注が入るようになり、取材に出向いたりレポートを書いたりし続けた。そうこうするうちに「じつは社員一人辞めるから次は絶対女性を入れたいんだけど、ミカエさん入ってえや」となった。

この頃になると子供も落ち着いてきて、仕事のスキルアップも図りたくなってきた。もっとグループインタビューのスキルを向上させたいと思っていたので渡りに船と流れに乗る形で誘いに応じた。

その一方、この頃になるとプライベートで変化が起きていた。

  

〈どこの家でもそうやと思うんですけど、小さい子供が二人いて親が二人とも仕事をしている状況って時間の争奪戦みたいなところがあるんです。旦那がほんまに昭和の男で自分は仕事で忙しい、と。おまけに何でもしてくれるようなお母さんの所で育ってはるし。あたしも仕事で稼いでましたけど、「やっぱり旦那が大黒柱で」みたいなところがあったんですね。

彼の「家のことを手伝う」というスタンスがあたしはずっと気に入らなくて 「『手伝う』じゃなくて、あんたの仕事でもあるんやで」みたいなことでよくケンカもしてたんです。でもそういう諍(いさか)いは本当に不毛で、どっかで諦めちゃったんですよね〉

 

それこそ夫婦で家事や育児を分担することをミカエさんは当たり前のことだと考えていた。しかし夫にはその理屈が通じない。

「手伝ってるやん」。
「手伝ってるってどういうことやねん」。

その繰り返しにすっかり消耗してしまった。彼女は夫を当てにせず、両方の実家と一緒に子育てした。とは言え夫を憎むようなことはなく、家族揃って遊びに行くのは楽しかった。だから取り立てて別れようとは思わなかった。

しかし子供が成長するにつれ、一家揃って行動する機会が減り始めた。親の誘いに対し息子たちが「友達と遊びに行くから行けへん」と返してきたとき、「この人と遊びに行ってもなぁ」とミカエさんは感じるようになった。

彼女は元はバックパッカーだったので、海外の文化が好きだったし外国に旅行に行きたいとも思っていた。しかしパートナーであるはずの夫はそうしたことにまったく興味がないのだ。

結婚したときはお互いに若かった。むしろ幼かった。しかし年齢を重ねるにつれ、互いの趣味の不一致が顕在化してきたのだった。

働く女性に対する世間の目にも不満が募った。仕事で東京に出張する機会が増えてきた。彼女の世代では、まだまだワーキングマザーの上空は見えない天井で覆われていた。出張先で同性であるはずの女性から「ご主人偉いね。よく出してくれるね」などと言われることが度々あった。
「出張なんやから当たり前やろ」と反感を覚えたが、世間の風潮として働く女性は「仕事をさせてもらっている」という扱いだった

バリバリ仕事をすればするほど「それを許してくれるご主人偉いね」という結論に流れて言ってしまう。それが本当に嫌だった。

幸福でいることと結婚していること。その二つに間に段々すきま風が吹くようになっていた。気がついたときには、結婚は幸せの条件ではなくなっていた。

 

不思議な別居生活

前述の通り、ミカエさんは子育てを実家ぐるみで行っていた。彼女の実家は二世帯住宅で、祖父母が亡くなった後、上階が空き部屋になっていた。ちょうど小学校の真ん前という立地だったし、ミカエさん夫婦は毎日仕事である。わざわざ自宅まで帰るのも面倒なので、子供たちはミカエさんの実家に入り浸っていた。その時間はどんどん長くなり、空いていた祖父母の部屋は子供部屋と化していった。もうほとんど住んでいると言ってもいい状態で、仕事帰りの彼女が様子を見に行くと「もうパジャマに着替えちゃったから、今日はこのまま寝るね」などと言われる状態だった。

子供たちはすっかりお爺ちゃん子、お婆ちゃん子に育っており、軽く野球が出来るスペースもあったので自宅にいる時間よりも長逗留していた。

ミカエさん一家はお出かけするときは仲良くやっていたが、一緒にいる理由が希薄になっていった。家族が分解しなければならないほどの強い危機に襲われた訳ではないが、かといってまとまっている必然性も弱い。

夫婦の話し合いは噛み合わず、夫はミカエさんのいらだちを理解することが出来なかった。気がついたら、やりたいことは一人でも出来ることばかりになっている。子供が手離れし始めた今、夫婦間で共通の趣味もない。

そんな訳で些細なケンカをきっかけに、ミカエさんは子供たちが待つ実家に帰ってしまった。子供たちの反応は「あ、お母さんも来た」という至ってのんびりしたものだった。結婚生活をつづけることはもはやどうでも良く、しかし別れなければならない不都合な何かがあるわけでもない。こうして長い別居生活が始まった。

この別居生活はちょっと不思議なものだった。ミカエさんの両親と夫はひじょうに仲が良かった。だから別居中にも関わらず、両親が彼を食事に招待するのだ。すると夫は何食わぬ顔でやって来る。彼女の方も憎み合うような大ゲンカをした訳ではないので、極々普通に食卓を囲む。さらに週に一度は子供のリトルリーグの付き添いで顔をあわせる。車を出さねばならなかったが、彼しか持っていないので同乗する。そしてグランドに着いたら一緒に応援するという具合だ。一家でキャンプに行ったりスキーに行ったりということも続けていたが、にも関わらず元さやに収まる気配はないのだ。

ケンカをしても週末のお出かけのときはケロッとしているのが、ミカエさんたちだった。家族四人の時間には限りがある。お互いそれをよく分かっていたので、なにはともあれ遊びに行く機会は大切にしていたのである。しかし一緒に暮らすとなると、やらなければならないことが多くなる。しかし仕事で疲れ時間も足りないときに、それをこなしていくのは軋轢の元だった。関係性がドロドロする前に、お互いほどほどのところで距離を取ったというのが、実際のところだろう。

ずるずると続いた別居生活にも終わりがやって来る。きっかけはミカエさんが久しぶりに海外に行ったことだった。

その年、彼女は子供たちの夏休みに合わせて夏季休暇を取ろうとした。しかしタイミングがズレてしまい、一人ぽつんと1週間の休暇が転がり込んでしまった。前後の週末も合わせると10日間ある。両親も子供たちも「たまには羽を伸ばしたら」と言ってくれたので、久しぶりの海外一人旅で台湾を満喫した。

独身時代に戻ったつもりでゲストハウスを泊まり歩いたところ、楽しくて仕方がない。現地人の友人もたくさん出来て、なにかが吹っ切れた。自分でも上手く説明出来ないが、とにかく中途半端な生活を清算しようと決心した。
「ちゃんと離婚しようか」。

夫ももう妻は帰ってこないだろう、と悟っていたようで「ほな、ちゃんとしよか」と応じた。彼女は自立していたし、感情のこじれが合ったわけではない。だから子供の教育費を夫の担当にし、養育費など別のことを彼女の担当にするという具合に役割分担を決めてサクッと離婚した。戸籍上は彼女が一人で離籍するという形を取ったため裁判所の世話にはなっていない。手続きはあっさりしたものだった。

社会に出たときから彼女は夫の姓を名乗っていた。旧姓で仕事をしたことは一度もない。子供たちは父親の姓のままだったので、母親の自分だけ名前を戻すと説明が面倒になる。そういう訳で名前は変えなかった。住む家は実家だが、結婚時代のマンションからほど近く、元々子供たちが入り浸っていた。息子たちが転校する必要もない。おまけに相変わらず両親が彼を食事に招待するし、子供たちの野球の応援にもやって来る。キャンプやスキーに同行することもあった。つまりなにも変わらなかったのだ。お互い再婚相手を見つけることもなく、しかし子供が成長するにつれ徐々に連絡を取り合う回数は減っていった。

  

45歳で海外移住する

ミカエさんが正式に離婚したのは、長男が中学校に上がる頃だった。つまり30代後半に差し掛かったタイミングである。

この頃彼女はフリーランスだったが、前述の通りスカウトされて別の市場調査会社に途中入社している。

ミカエさんにとって離婚よりも、フリーになったことや転職に伴う変化の方がずっと大きかった。それだけ仕事に燃えていたのだろう。

やがて40歳の声が聞こえると、管理職的な働き方を求められるようになった。彼女は上の人間には率直にものが言えるが、部下を指導するのが苦手だった。不慣れな新人がもたもたやっているのを見るのは耐えがたい。しかし彼らに言いたいことを上手く伝えることが出来ず、ストレスをため込んでしまうのだ。

そういう訳で彼女は人を育てるより、自分が現場に出たいと思った。だから再びフリーランスになった。会社が忙しいときにプロジェクト毎に労働契約すれば、後輩を育てろとは言われない。ミカエさんはレポーティングやグループインタビューのモデレーター(司会者)をしながら、キャリアを深めていった。

そんなある日のこと。婦人靴の海外生産のエージェントをやっている人物を紹介された。その人物は千趣会(女性向け通販「ベルメゾン」などを展開する企業)や日本通販といった通販会社の商品と海外工場のコーディネイトしていた。クライアントから開発中の商品の仕様を提示されると現地の工場にサンプルをつくらせ、生産や管理までの商談をまとめるのだ。その彼から「今度千趣会に企画書を出したいんやけど、ちゃんとようつくらんからパワーポイントでつくって」と言われ、代行してあげたことで海外の仕事が増えていった。

それまでは中国の工場に発注する企業が多かったが、この頃を境に日本企業は中国で生産することに慎重になっていた。北京政府の外交方針次第で出荷の手続きに時間がかかるなど、トラブルが多くなっていったからだ。「チャイナネクスト」ということで目を向けられたのが東南アジア。しかし問題があった。中国の工場には大抵日本語を話すスタッフがいる。しかし東南アジアの工場は欧米のからのオーダーを請け負っていることが多く、英語で商談しなければならない。そこで英語力のある人材が求められた。ミカエさんはバックパッカー上がりでそこそこの英語力を持っていた。それを買われて「この英語のメール訳してえや」といった仕事が舞い込むようになった。

最初は月極め定額で翻訳を請け負っていたのだが、海外放浪の話をすると「じゃあ、付いてきてえや」という話になりカンボジアベトナムに同行した。やがてそれが「忙しいから代わりに検品行ってよ」になり、「分かるやろ? こないだ一緒に行ったから」と押し切られ主要諸元表を片手に出張を繰り返す生活に入っていった。訪問先は台中に本社をもつ台湾系の工場が主で、40歳を過ぎてからは月に1度は東南アジアに赴いた。

日本からはバンコクを経由して飛んだ。ミカエさんはバンコクがお気に入りで、出張の度に1週間程度ストップオーバーした。そうこうするうちに友人知人が増えていき、とある日系の調査会社の社長を紹介された。

その頃次男の大学進学が決まって、一人暮らしすることになった。長男はその3年前に大学進学のために家を出ており、いよいよ家には彼女だけが残る形になった。「靴の仕事しながら、バンコクと大阪を行ったり来たりしよかなぁ」と考えていることを周りに話すうち、バンコクの調査会社の社長から「それやったらウチに来てよ」と誘いを受けた。

その会社はタイの現地企業の信用調査を祖業に手広くやっている所で、日系企業がクライアントだった。顧客から市場調査を望む声も多かったため、専門家であるミカエさん を核にして事業部をひとつ立ち上げようと考えたのだ。

ビザの手配もしてくれるし給与も悪くない。しかも勤務地はバンコクである。離婚してシングルになり子育ても卒業したミカエさんを日本に縛り付ける要因は、既に存在しなかった。こうして45歳になっていたミカエさんは単身タイに移住した。日本脱出という20年越しの夢が叶ったのである。

  

アジアを股に掛けて

セミリタイアくらいの感覚でバンコクに渡った彼女だったが、南国らしいのんびりした生活は送れなかった。

渡泰は4月1日付けだったが、2011年のことだった。初めの1ヶ月間こそ時間を持て余し気味にしていたものの、東日本大震災で消費の冷え込んだ日本企業が続々と海外に販路を求め始めたものだから、仕事が殺到した。

調査員はタイ人だったが、上がってきた報告を日本語でまとめられるのはミカエさんだけだ。殺人的な忙しさとなり、現場はパンクした。会社は人員を増やそうとしたが、市場調査の経験があり、なおかつ英語のレポートを日本語にまとめ直せる人材はおいそれとタイに来てくれない。

1年半が我慢の限界だった。「立つ鳥跡を濁さず」とはいきそうもなく、仕事は山積みだったので躊躇したが、結局社長の制止を振り切って退社した。一緒に働いていたタイ人のスタッフたちが「後のことは気にしないで。大丈夫」と背中を押してくれたからだ。

そのまま大阪に帰ろうと考えた。しかし仕事が離してくれない。彼女の許に直接依頼が届くようになったのだ。ちょうど彼女の友人のなかに日本に留学経験があるタイ人女性がいた。彼女は欧州の友人からの依頼でタイの市場調査を請け負っていた。しかしレポーティングは苦手だという。逆にタイ語の出来ないミカエさんにとって、取材や交渉が得意な彼女は貴重な戦力である。お互いの足りない点を補い合う形で一緒に働くことにした。日本の企業と取引するために法人格が必要なので、彼女に会社を立ち上げてもらい、ミカエさん自身はあくまでフリーランスとして彼女の会社と案件毎に契約した。

 

「公園のママ友のときもそうでしたけど、結束の強いグループが苦手なんです。ゲストとして気持ちよく接してくれる集団が好きですね」。

 

海外の人と仕事をするときは、責任の所在や仕事の範囲が明確だ。自分の分担であれば決定権も責任もついてくる。途中で業務が増えてもその度に条件の改定があり、費用も時間も追加される。あくまでも雇用関係ではなく、プロ対プロとしての契約関係。そういうスタンスが心地よかった。

そうこうするうちに仕事の範囲がタイだけに収まらなくなってきた。「アジア各国をまとめてリサーチして欲しい」という需要が増えたためだ。ベトナムを手始めにミャンマーなどいくつかの国で活動する協力者を発掘しつづけ、ネットワークを拡げていった。そして最終的に毎年5月と11月にアジア8ヶ国(シンガポール、マレーシア、ベトナムミャンマー、タイ、フィリピン、香港、インド(ムンバイ、デリー))を調査するルーチンワークを任されるまでになった。

彼女は若い頃から興味を持っていたインドを直接担当し、あとの地域は協力者たちに発注する形で業務を廻した。バックパッカーとして上がりの形である。ミカエさんのタイ暮らしは6年半つづいた。

  

* * *

  

ミカエさんの半生は、大きな回り道をしたバックパッカーが本来戻るべき場所に回帰していく物語だった。分かれ道となったのが学生結婚だ。

結婚して、家族のために自分の人生を諦めてしまうような生き方が、昭和の勤め人の典型例だった。
しかしミカエさんの生き方はもっと奔放で、しかし地に足付いており、ひたすらカッコイイ。
僕は彼女のファンである。

 

* * *

 

ミカエさんの物語は以上です。
またのお越しを、お待ちしております!