ども。檀原(@yanvalou)です。
昨年1年間でおよそ10人/組の学生結婚夫婦を取材しました。
学生結婚の従来型のイメージは、乱暴な言い方をすれば「やっちまった」「人生終わった」だと思います。
しかし実際に様々な人に話を聞いていると、まったくそんなことはありません。
むしろ「一般の人たちよりも得しているんじゃないか?」と感じることも少なくありませんでした。
今回はそんな学生結婚をした大阪人のミカエさん(仮名 1966年生まれ)の話をしていきます。
第1回をどうぞ。
* * *
ミカエさんの半生は、大きな回り道をしたバックパッカーが本来戻るべき場所に回帰していく物語だった。分かれ道となったのが学生結婚だ。
「学生結婚に反対する意見として『若すぎる。まだ準備が出来ていない』という声がある。学生結婚の当事者として、適切なタイミングはいつだと思うか?」。
ミカエさんにこんな質問をぶつけてみた。彼女の返答は振るっていた。
〈人様の話を聞いていると、結婚したいという二人の気持ちが同時に重なり合うのは稀だと思うんです。どちらかの気持ちが高まっても、相方が「まだいいかな」と覚めていることは珍しくないでしょう。なにか差し迫った理由がない限り、二人同時に盛り上がるのを待っていたらいつまで経っても結婚できません。結婚の準備? 人それぞれです。敢えて言うなら「子供が出来たとき」だと思います〉
かつて赤ん坊は「産むもの」ではなく、「産まれてくるもの」だった。堕胎とか計画出産がなかった時代には、赤ん坊は文字通り「授かるもの」だった。そのタイミングは人間がコントロールする領域の外にあった。
そんな時代が遠くなってしまったいま、結婚を決断できないカップルは珍しくない。学生結婚というのは、のっぴきならない状況に背中を押された若い二人が、ありのままのなにかを受け入れていく過程なのかも知れない。
遅れて入学した大学生バックパッカー
ミカエさんは大阪城を眺めながら育った。高校を卒業後、専門学校に進学したが全然面白くない。そこで大好きな雑誌の編集部に「雇って下さい」と押しかけてみた。19歳くらいのときだ。
その雑誌は『ペリカンクラブ』といい、いまでも古本屋の店頭やヤフオクなどで盛んに取引されている。30年も前に廃刊したが、根強い人気をもつサブカル系情報誌だ。
京都の21世紀社発行のペリカンクラブも出てきた。84年発行だから私が就職する前のものか。EP-4の広告が載ってるところ、京都だなあ pic.twitter.com/6pR10XE2y5
— 柏木哲夫 ∃xist (@tkore61) November 28, 2018
彼女は版下作業のアシスタントとして採用された。まだ DTP が一般的になる前のことで、本や雑誌は写植で打ち出した文字や、トレーシングスコープでサイズ調整した写真を貼り付けて製版用の原版をつくってから印刷した。その作業の一部を手伝ったのだ。
事務所は京都市左京区の鹿ヶ谷という所にあった。間口が狭く「ウナギの寝床」といった風情の京町家で前栽を備えた坪庭もあった。トイレは渡り廊下の向こう側まで行かねば用が足せず、仕事場は畳敷きだった。時は1980年代半ば。中島らも、蛭子能収、糸井重里、ひさうちみきお、泉昌之といった当時売り出し中だったクリエイターたちの名が、ひねりの利いた誌面に踊っていた。白塗り舞踏家集団の「白虎社」など一風変わった人たちが入れ替わり立ち替わり遊びに来るような事務所だった。その中でも常連だった数人は「ご飯食べ行こう」と連れ出してくれた。安月給を帳消しにするような楽しい職場だった。
まだネットがなく、口コミか印刷物でしか尖った情報が入ってこなかった時代。「詳しい人たちはこんな情報どこから探してくるんだろう」と関心ばかりしていた。特別な接点でもない限り、普通の人には縁のない世界。その濃厚さの半分も分からなかったが、どっぷり首まで浸かっていた。
「大人になったら、自分の好きなことをこれくらい究めたい」と思ったのもつかの間、『ペリカンクラブ』は1年経った頃に廃刊してしまう。
ミカエさんは大阪に戻って考えた。
「あたし、なにが好きなんだろう?」。
アジア全般の文化が好きで、音楽をよく聴いていた。『ペリカンクラブ』に出入りしていた大人の人たちみたいに、好きなことには正直でいたい。彼女は単身ふらりとインドへ旅出った。そうして日本に戻ってくるなり、こう思った。
「勉強しよう。大学に行かんとあかんな」。
大枚はたいて専門学校に通わせてもらったのに、とっとと辞めてしまった過去がある。学費の安いところはないかと探ったところ、地元・大阪市立大学の二部の学費が破格の安値という事実に気がついた。なんと年間15万円程度(当時)である。授業のコマ数が少ないため「5年通わないと卒業出来ない」という制限はあったが、これだったらバイトしながら学費を払える。彼女は遅まきながら受験勉強を始め、見事合格する。
大阪市立大のキャンパスは広大でヤシの並木がシンボルだった。国登録有形文化財である1号館を真ん中に、天を突く巨大ヤシが列をなす光景は圧巻で、花の大学生活を祝福しているかのようだった。
しかし旅行熱は冷め切らない。サークルに入ることもなくバイトに励み、夏休みいっぱい中国大陸を堪能した。
新学期がやって来た。しかし彼女の予定表は真っ白だった。旅行に行こうにも大きな休みになるまで時間がとれない。しばらく日本にいるんだし、とにかく退屈だ。なにか大学生らしいことをしよう。そんな風に考えた。高校時代にちょっとやったことがあったテニスなんかいいんじゃないだろうか。
そんな訳でミカエさんは硬式テニスサークルに入部する。1年生の秋のことだ。この選択が運命の歯車を大きく回転させることになろうとは、もちろん夢にも思わなかった。
結婚は当たり前や
Photo by frank mckenna on Unsplash
その男性はサークルの OB だった。休みの日に練習しに来ていたのだ。3つ年上の社会人ということもあり「しっかりした人だな」という印象を持った。やがてミカエさんはこの先輩とつきあい始める。
そこからの展開は早かった。秋に出会った二人だったが、年が明けていくらも経たないうちに彼女が懐妊するのだ。
電話口で「子供出来てるかも知れへんから病院に行く」と打ち明けたところ、彼は「ほんまに出来るもんなんやなぁ」と嬉しそうだった。彼は社会人2年目である。早いということはないかもしれないが、入社3年目を目前にして父親になるという事実は心を揺さぶるには充分だ。しかし彼には少しも迷いがなかった。むしろミカエさんさんの方が慌てた。絶対大学を卒業したいと思っていたからだ。なぜ今なんだろう。そんな風に思った。
「いや、卒業したらいいやん。結果電話してな」。彼は鷹揚だった。
前述の通り、お腹には赤ちゃんが出来ていた。
彼に報告したところ「ほな、今日仕事終わったら挨拶行くわ」と即答された。
当時の彼女は実家暮らしだった。
妊娠してると分かったら、話を進めていかんとな。お父ちゃんもお母ちゃんも、びっくりするやろけど…。
二人の間では既に結婚の話も出ていた。しかしそれは彼女が卒業してからの話であって、まさか交際半年でこうなるとは思っていなかった。
父は明らかにショックを受けていた。子供が子供をつくってからに!
「まだ学校に行き始めたばかりやろ。結婚はしても良いけど一人目は堕ろせ」。そして不機嫌そうに黙り込んでしまった。
「いや、それはないわ」と思ったミカエさんは、家から出ていくことを覚悟した。
ところが翌朝。父の様子がちがっていた。一晩眠れずに考え抜き、改めて話を聞くことにしたという。昨晩は、まだ学生だと思っていた娘からの突然の話に驚いていたのだ。
結婚相手は公務員で仕事もちゃんとしている。大丈夫やから。娘たちの言い分を聞いた父親は言った。
「分かった」。
母も「子供できてんねんやったら、あんた体大事にせなあかんよ」と応じた。
相手の家は父親が早くに亡くなった片親で母親だけだったためか「ちゃんとしてあげなさいよ」と息子を諭し、すぐに結婚の挨拶に来てくれた。これで決まりだった。
昭和10年代生まれの双方の両親にとっては、かなりの想定外であったと思われるが、ミカエさんも彼も、子供ができて結婚して、ふたりで育てるのは当たり前のことだと思っていたので、そんな親の戸惑いはお構いなしにどんどん話を進めていった。
「親が離婚して大変なんやろうな」と思われていた
出産予定は10月だった。それを見越して計画が立てられ、彼女は4月から1年間休学することになった。
大学はひじょうに協力的だった。公立校ということもあり、なおかつ教授会で休学が認められたため、休学中の学費は免除された。
つわりの時期と休学前の試験の時期が重なっていたが、「なにかあったら怖いから、体調が良くなってから試験代わりにレポートを出して下さい」と先生が気を利かせてくれもした。
さらに出産後は昼間の方が通いやすくなったため交渉したところ、夜間部の学生にもかかわらず昼間の授業を受講させてくれるという配慮までしてくれた。この点に関しては「一部と二部とで同じ教授が同一のカリキュラムで講義を行っていた」という大阪市立大のカリキュラムも関係していたのだが、ひじょうに良い時代でもあったのだろう。
ただちょっとしたざわめきもあった。二部は学生が少なかったせいもあり、進級者の名簿の貼り出しがあった。そのとき既に入籍していた彼女は苗字が変わっており、それを知らないクラスメイトの半数から「親が離婚した」と思われていたのだった。
〈休学したから、あたしはけえへんし、「なんかあったんかな。お家がたいへんなんやろうな」みたいに思われてたようです。子供が出来て結婚すると知ってる友人が言うてくれたんですが、あたし本人は今年は休学で行かないという形やったし、まあ、そうやろな、と。最初の休学はそんな感じでした〉
「できちゃった婚だけにちゃんとせな」という親の気持ちもあり、結婚式はきちんとした形で、出来るだけ早く挙げることになった。日取りは5月である。お互いの友人や親戚を呼んで盛大に門出が祝われた。そしてつわりを考慮して近場になってしまったものの、倉敷へ新婚旅行にも出かけた。このとき彼は26歳。ミカエさんは23歳だった。
粛々と新生活が進んでいったわけだが、ミカエさんに不安はなかったのだろうか?
〈そんなに「わー」と思ってなかったんですよね。「育てるのはあたしらやしな」と思ってたから、親に反対されても障害になっていないというか。旦那は仕事しているし、忙しい職場じゃなかったんです。だから「産まれたら夜は僕が家で見とくから、学校行ったらいいんちゃう?」と請け合ってくれました。あたしは卒業する気やったし、「子供を育てながら学校行ったりすんのかな」とぼんやり考えていました。そんなに大事だと思ってなかったんです(笑) 堕ろすことなんてまったく考えていませんでした。
今やったら「若いって怖」って思いますけど、そのときは「なんとかなるのに、なにをそんな騒ぐの?」っていう感じやったんですね〉
子育てのリアリティーが持てなかったからこそ踏み出せた決断だったのかもしれない。
つわりが収まってからはアルバイトもした。同級生の誘いがきっかけだったという。
「ええ! あんたも!?」
じつは高校の同級生がほとんど同じタイミングで学生結婚していたのだ。彼女もミカエさんと同じ大阪市立大学(ただし昼間部)に通っており、お互いの実家も近かった。だから産院も同じで出産は5日違いだったという。
そんな共通項の多い彼女とつれだって、安定期(妊娠5ヶ月目から7ヶ月の妊娠中期いっぱいまで。胎盤が完成して流産のリスクが減り、つわりが軽減する)に入った頃から一緒に働いていたという。
大学の学生部に出向いて「妊婦でも出来るがあるはず」と学生部にバイト募集の掲示を見に行って、模擬試験の採点のバイトなどに応募した。学生部の職員さんは「妊婦なんやから無茶したらあかんで」と言いつつも対応してくれた。
友人の紹介で、御堂筋の彫刻の除幕式の運営助手をしたこともある。セレモニーの一環として一斉に風船を飛ばすのだが、「風船膨らますぐらい、妊婦でもできるって」と勇んで空気を入れていたという。
「二人ともここで産まんといてな」。イベント会社の社員が冗談を飛ばした。
妊婦の腹を連想させるバルーンを、当の妊婦が大きくしている光景は滑稽である。
アルバイトには随分行ったそうだが、学生が来るとばかり思っていたのに二人連れの妊婦が現れたものだから、担当者が慌てることがちょくちょくあったそうだ。まるでコントである。
とは言え、さすがのミカエさんもアルバイトの件は親には内緒にしていたという。
「あたしが馴染まれへんと子供の友達が出来へん」というのはしんどかった
Photo by Taylor Deas-Melesh on Unsplash
無事息子が産まれると、父親はメロメロになった。「堕ろせって言うてたことあったんやで」とツッコミを入れたくなるほどだった。
季節は巡り、再び4月になった。世の中の多くの人は、学生でいる期間と結婚生活や出産が重なることがない。学生妻は結婚してからが大変だ。復学したミカエさんはそのことを実感した。
社会人と学生の結婚生活のちがいはなにか。社会人は仕事が終わって帰ってきたら何もしない。余暇を好きなように過ごすだけだ。仮に資格の勉強をするにしても、それはお金になる。
しかし学生は授業に出なければならず、帰宅後もレポートや卒論などを書かねばならない。それはお金にならないのだ。そんな立場の者がする結婚や子育ては、社会人のそれとは自ずとちがってくる。
授業に出ず、家で勉強もせず、キャンパスに顔も出さない学生の体験談は、その辺のフリーターの話と変わり映えしない。ここで書きたいのは普通の学生の声である。
ミカエさんたちは二人きりで子育てするのは難しいと判断した。大きな計算違いが起こったのは結婚直前の4月。夫の配置転換である。それまでは暇な部署にいたのだが、忙しいセクションへの異動で忙殺され家事や育児に参加出来なくなったのだ。
結局「昭和の男」だったんでしょう。全然頼りにならなかった。ミカエさんはそんな風に言う。
女学生が一人で子育てするなど、到底無理な相談だ。二人はミカエさんの実家のそばにマンションを借りた。そうして彼女は我が子を実家の母に預けて登校した。夫の職場も実家から遠くなかったので好都合だった。
学生結婚にはいくつか利点がある。その一つは夫婦の親たちがまだ若いことだ。息子が生まれたとき、ミカエさんの父はちょうど50歳。母は53歳だった。体力があるので、孫の面倒を喜んでみてくれる。この点は大いに助かったという。
しかしそれで万事上手くいったわけではない。最初の関門はママ友づくりだった。
「近所の公園のママさんの輪に入るのも、入って継続していくのも、とても難しかった」とミカエさんは回想する。
学校がないときは子供を連れて近所の公園に行った。そこで見かけるママたちは、彼女より五つ以上年上だった。こちらから話しかけたりもするが、とにかく話が合わないし、共通の話題が見つからない。「全然馴染まれへんわ」と思った。しかし自分がママたちの仲間にならないことには子供も輪の中に入れてもらえない雰囲気があって、我慢した。こんな経験、男にはないだろうと思った。
まだ若い自分の友人たちには、子供はいない。子育てを親に手伝ってもらっているということもあり、学校に通うことくらいのことは出来た。しかし息子の友達が出来ないというのが辛かった。
その頃も保育園の入園条件は厳しくて、学生が子供を預けるのは難しかった。保育園は教育ではなく福祉である。子供の面倒をみられる人は自分でみましょう、という考え方だ。
試行錯誤した挙げ句、実家が工場だったのを良いことに「家の仕事を手伝わないといけないんです。でも子供を連れて行くと機械が危なくて」と訴えまくり、息子が2歳の春から保育園に入れてもうことに成功する。正直ほっとした。
保育園を利用するのは働くお母さんたちだ。送り迎えで一緒になったが、話の合う人たちばかりだった。保育園の行事やキャンプに参加していくことで、仲間が増えていった。それがミカエさんのママ友たちだった。息子の保育園が決まって、あたし自身の世界と関係なく、息子の人間関係ができていくことがとてもうれしかった。
〈奥さん働いているお家ってお父さんが結構動くんですよ。だからお父さんが子供を保育園に連れてくることもあって、子供と親たちがキャンプに行ったりするときはお父さんたちも一緒なんです。だからママだけの保護者グループに入ったことは一度もなくて、ママ友ありパパ友ありというのがあたしの仲良しグループでした。きっかけは子供ですが、普通にあたしの友達でした。
息子がもう少し大きくなってリトルリーグに入ると、校外の野球チームのママ友とも仲良くなりました。保育園と野球チーム、このふたつのママ友グループは個人的にも気が合うグループだったんです。
公園でママ友同士がマウントの取り合いするような世界は経験していません。子供が小さくて仕事は旦那さん任せの専業主婦たちが変な気の使い合いしたり、共通の話題もないのに話を合わせる、という世界とは距離を置いてました〉
例えば近所の専業主婦たちには「どれだけ家が綺麗に片付いているか合戦」のようなものがあった。一方ワーキングママたちはざっくばらんで、家でも会社でも忙しいから遊びに行っても家の中は散らかっていた。しかし「出来る範囲でやったらええねん。死ねへん、死ねへん。」というノリですごく気が楽だった。
〈あたしは保育園でずっと一番若い母親でした。でもほとんど気にしたことはないんです。「自分が下やからどう」というような難しい関係はありませんでしたから。専業主婦だけのグループだと微妙に年いってるから気つかうとか、逆に若すぎて気つかうとか、そういう難しい人間関係ってあるのかもしれませんけど、保育園のお母ちゃん達ってみんなそんなこと言うてる余裕ないんですよ〉
とは言え、子供が小さい時はまだ若くて「あれもしたいし、これも気になるし」という風に、自分の仕事やプライベートのことが気になった。「子供ができたのに、いつまでもこんなことでいいのか」と悩むことも多く、仕事を一通りしてから子育てに入ったであろう年上ママたちが落ち着いているように見えて羨ましかった時期もあった。
* * *
第2回につづきます。
ご期待下さい。