メケメケ

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町工場や倉庫がひしめく運河のほとりから、セカイに向けて書き綴るブログ。

プロ野球、助っ人外人選手第一号の謎

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Photo by Nicole De Khors from Burst

ども。檀原(@yanvalou)です。

高校野球の季節ですね。
夏と言えば、野球です。

いままで3冊の本を出してきました。
ボツになった企画の数はかなりの数に上りますが、そのなかに野球本の企画もありました。
10年くらい前だったでしょうか。
お蔵出しの意味も込めて、今回はそのネタをご披露いたします。

 

 

プロ野球、助っ人外人選手第一号の謎

この企画を思いついたのは、佐山和夫さんの『ジャップ・ミカドの謎』(文藝春秋社)という本を読んだのが切っ掛けでした。


「ジャップ・ミカド」の謎―米プロ野球日本人第一号を追う

一般に日本人のメジャーリーガー第一号は40年前の村上雅則(マッシー・ムラカミ)さんだとされています。
しかしそれよりずっと前、大正時代(つまりまだ日本にプロ野球がなかった時代)の段階ですでにアメリカの球界でプレーしていた日本人がいた、という史実を丹念に調査したミステリー・ノンフィクションです。

この本を読んで思い付いたのが、この企画。
日本球界に欠かせない外国人選手ですが、では第一号は誰なのか?
意外と語られることのない史実を掘ってみよう、という本です。

 

企画概要

 プロ野球にチームに欠かせない助っ人外人選手。古くはバース、クロマティ、アニマル、最近ではカブレラタフィ・ローズ、グリエルなど、その数は膨大である。ダメ外人、あるいは記憶に残る外人などという切り口で記事になることが多いが、しかし最初の外国人選手について語られたことはあるだろうか。
 
この点についてあまり語られないのは、誰が最初の選手なのかハッキリしないからである。
「植民地時代の台湾人は日本人か?外国人か?」
「日系アメリカ人は日本人か外国人か?」
「日本で義務教育をうけた無国籍選手は日本人か?」

「外国人」の定義によって誰が最初の外人プレイヤーになるのか、意見が割れてしまう。    

 本企画では難しいことを考えず、「最初の外人プレイヤー候補」だと考えられる4人の選手をリストアップ。彼らの活躍を紹介する列伝の形式を取る。

実際にネット上では「助っ人ガイジン」に関する記事は少なくない。国民的スポーツなので、たくさんの読者の興味を惹くものと思われる。

 

内容=プロ野球創世時代の四人の選手について取り上げる

第1章 第1号外国人選手は”スイッチヒッター”だった!

★ジミー堀尾(本名=堀尾 文人、1907年〜1949年)

ハワイ州マウイ島生まれの日系二世で、1934年の「大日本東京野球倶楽部」創立メンバーの一人。このため、日本プロ野球の外国人選手(外国籍選手)第1号ともいわれる。
日系球界屈指の長距離砲で、「ベーブ・ルース堀尾」と言われた。スイッチヒッターだが走塁に有利な左打席に立つことは稀で、右打席で強引なスイングをした。アメリカで日系人プロ選手第一号を目指した選手ともされる。

  • 人呼んで「ロサンゼルスのベーブ・ルース
  • 人種差別との孤独な戦いの日々
  • 何のツテもない来日
  • 念願の全日本軍入り
  • 失意のマイナーリーグ
  • ユニフォームの着方からしてちがう
  • わずか数行の訃報

 

第2章 第1号外国人選手は”ハダシ”でプレーした!

呉昌征(本名=呉 波。その後日本に帰化石井昌征 1916年〜1987年)

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現役時代「人間機関車」の異名を取った俊足・強肩の外野手。台湾の嘉義農林学校時代、甲子園大会に春1回、夏3回出場。裸足のプレーで知られた。1937年に東京巨人軍に入団。1944年に阪神タイガースに金銭トレード移籍。1949年末の2リーグ分裂騒動でパ・リーグ毎日オリオンズに移籍。1957年に現役を引退。死後、8年経って野球殿堂入り。

  • 台湾南部から甲子園へ
  • 台湾初のプロ選手。日本野球初の20年選手
  • 甲子園が芋畑に!選手自ら畑を耕す
  • 巨人、阪神両チームで、主力選手として活躍
  • 外野手ながら投手兼任。なんとノーヒットノーランまで達成
  • 日本語しか話せない外国人
  • 不幸つづきの晩年


人間機関車 呉昌征 (巨人軍-阪神軍・大阪-毎日)

この「台湾南部から甲子園へ」というのは、台湾で大ヒットした映画「KANO 1931海の向こうの甲子園」で知られる嘉義農林学校時代のエピソードです。
野球部の監督役で永瀬正俊が出演しています。


映画『KANO~1931海の向こうの甲子園~』予告編

 

第3章 第1号外国人選手は”無国籍”だった!

ヴィクトル・スタルヒン(戦時中は須田 博に改名 1916年〜 1957年)

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通算300勝達成記念写真(1955年)(『20世紀のプロ野球名選手100人』日本スポーツ出版社より)

ロシア帝国生まれ、北海道育ち。国籍は無国籍だった。沢村栄治と並ぶプロ野球黎明期の名投手で、日本プロ野球界初の外国生まれの選手とされる。1934年日米野球の全日本チームの投手としてプロデビュー。戦時中は「敵性人種」として軽井沢に軟禁され、野球界から追放される。
戦後パシフィックに復帰し、史上初の通算200勝を達成。1948年に金星スターズ、1954年に高橋ユニオンズに移籍し、今度は通算300勝をマークしている。
引退から2年後の1957年、謎の交通事故で死去。1984年、地元旭川市営球場が愛称「スタルヒン球場」と命名された。

  • 日本への亡命
  • 殺人者の息子とよばれて
  • 経済事情により学校を中退、プロ選手に
  • シーズン42勝。不滅の日本記録達成
  • 戦争激化、「敵性人種」として軟禁される
  • 史上初の通算300勝を達成
  • 謎に包まれた死

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旭川市営球場のスタルヒン像(wikimediaより)
 

第4章 第1号外国人選手は”日本との交戦”で戦死!

★アデラーノ・リベラ(アチラノ・リベラの表記も 1910年〜1945年)

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日本でプレーした唯一のフィリピン人選手。1939年、東京巨人軍(現・読売ジャイアンツのマニラ遠征にて対戦したマニラ税関チームの主将を務め、ヴィクトル・スタルヒンを打ち崩す。同年、巨人に入団。同チーム初の満塁本塁打を記録するも、同年限りで引退。帰国後は税関吏として働いた後、フィリピン独立義勇軍に身を投じ、日本軍と戦い戦死した。

  • アジアの先進国だったフィリピンと途上国だった日本
  • 豪腕スタルヒンを苦もなく攻略、スカウトされる
  • 巨人球団史上初の満塁本塁打を放つ
  • 「マニラの選手は攻守走すべてにおいて日本人より上です」
  • 突然の退団、消息不明に
  • 大好きな日本と戦い、戦場に散る


フィリピン出身 アチラノ・リベラ (巨人軍)

戦前当時は「アチラノ・リベラ」と表記されていた。
ビルディングが「ビルヂング」、ヒンドゥー教が「ヒンズー教」、フェリス女学院が「フエリス女学院」と表記されていた時代だから、無理からぬことだと思う。

 

◎参考資料

 

このなかでとくに興味を惹かれたのは、4番目に挙げたアデラーノ・リベラ選手です。
フィリピン人のプロ野球選手って想像できますか?

野球に限りませんが、フィリピン人のスポーツ選手、ことにスター選手というのは想像できません。
ひじょうに興味深い存在と言えるのではないでしょうか?

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戦前の雑誌『野球界』1940年2月号でスタルヒンらと写真に写ったリベラ

いまは消えてしまいましたが、企画書を書いた当時は、「お父さんがリベラ選手と交流をもっていたと」いう方のブログ記事がありました。

魚拓を取っていましたので、「トム&龍馬」名義のその記事を引用してみましょう。

(前略)この人との交友は戦時中の占領地フィリピンでの話で、敵対国同士でありながら、戦地で個人として家族ぐるみの交友があったようで、「危ないから来るなと言ってんのに、子供が食料を運んで来てくれるんだ」と語ってくれた。

最も親父は足掛け7年も戦地にいたにも係わらず、戦争中の話は記憶の外に捨て去ったようにまったくと言っていいほどしなかった人だが、思い出してもいい話は僅かながらしてくれた。このリベラ一家との交流はその一つだった。親父がどれだけフィリピンに駐留したかは知らないが、かなり親しくさせてもらったようでとくに子供達との親交はなつかしそうに話していた。

しかし、どうやって親しくなったかは分からず終いだったが、つい最近、スタルヒンについて調べていてこのリベラと言う名を発見。経歴を何気なく読んでいて,あっと気がついた。

彼は、1939年1月に巨人軍がマニラ遠征したとき、対戦したマニラ税関チームの主将を務め、あのスタルヒンを打ち崩したことが注目され、巨人がスカウト。この年(1939年)のシーズン前半よりゲームに出場。シーズン途中よりクリーンアップの一角の5番に定着。巨人軍初の満塁本塁打を放つなどスラッガーとして活躍。しかし、戦況の悪化でプレーはこの1年だけで、フィリピンに帰国したとある。その後、税関の仕事に戻ったとか、通訳として働いていたとか諸説があるが、戦争末期になって日本人とのかかわりが関係して戦死したようだとその消息を語っていた。

1939年と言うと親父が投手として47試合に出場していた年であり、又本拠地が共に後楽園球場という事、英語が好きで得意だった親父との交友関係はこの年に始まっていたことが、容易に想像される。
 
そのリベラと占領中のフィリピンで再会、家族ぐるみで親交を深めていたことは、確かなようだ。フィリピンの駐留地は、兵役で戦争に借り出されたプロ野球選手が駐留中に交差したようで親父は、戦地で沢村先輩にもお逢いしたと語ったことがある。その他名キャッチャーの吉原等の名前も。そんな環境で彼は親父との交友も1つだが、兵役で駐留中の日本のプロ野球選手の多くと交友関係があったようで、もしそれが、彼の戦死と少しでも関係があるとしたら、当時のプロ野球関係者には気の重い話だ。

その後、リベラの名が登場してくるのは、約30年後の1967年。この年は日本でユニバシアードの東京大会があり、このときに元日本のプロ野球選手だったリベラと言う人の娘二人がバレー選手として出場していると言うニュースがあった。

我々家族も親父と一緒に、フィリピンの試合の放映はいつかを必死に探したことを思い出した。チームの同僚だった川上選手がこのふたりと直接会って死亡の真相を確かめたようで、それによると「日本より帰国後、税関士として働いた後、フィリピン独立義勇軍に身を投じ、日本軍との戦いで戦死した」と話していたと言う。

親父としては、当時リベラ一家との少なからぬ親交は忘れ得ぬ暖かい思い出となっている。

 

じつはフィリピンというのは興味深い国で、日本には一人として専門の研究者がいないのだそうです
その一方、戦前の沖縄からフィリピンに出稼ぎ者が数多くいたとか、日本のジャズはアメリカ人からではなくフィリピン人から教わっただとか、歴史の闇に消え去ったエピソードには枚挙にいとまがありません。

いつかフィリピンの話も書いてみたいものです。

今日の記事は以上です。
またのお越しを、お待ちしております!

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