Photo credit: European Parliament on VisualHunt / CC BY-NC-ND
ども。檀原(@yanvalou)です。
ここ数年、茨城県牛久市にある東日本入国管理センターで長期収容されている外国人に対する対応が、問題視されています。
正確に言うと、入管での対応がひどくなったのは2016年以降だと言われます。
「入国管理局の収容施設、 #東日本入国管理センター (茨城県牛久市) で、被収容者が長期収容などに抗議しハンガーストライキを行っていることが17日分かった」
— 廣瀬俊介 (@Shun_Hirose) April 22, 2018
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入管収容施設で待遇改善求めハンスト、インド人男性死亡を受け|04/17 ロイター https://t.co/HxagVS8XJn
「死ぬか出るか」 入管ハンストの男性2人、会見で語った心境#ハンガーストライキ #東京出入国在留管理局 #東日本入国管理センター #牛久市 https://t.co/UeTlBXgmOQ
— J-CASTニュース (@jcast_news) August 13, 2019
この施設は出入国管理局の施設ですが、難民認定を待つ人々が収容されています。「人権を無視して外国人を抑圧している」と、各方面から非難されている訳ですが、その根幹にあるのは難民を受け入れたくないという日本政府の姿勢でしょう。
しかし僕のこの部分に引っかかりを覚えていました。
たしかに現在の日本は難民受け入れに及び腰です。
資料に拠りますが、ここ数年の難民認定率は0.2〜0.4%程度とされています。
しかしメディア上で「ボートピープル」という言葉が飛び交っていた1970年代から80年代にかけて、日本はベトナム難民を大勢受け入れていました。
うちの実家はキリスト教ですが、現在の神父様はベトナム難民だった人物です。
外務省の公式ウェブサイトには
「(前略)1970年代後半,ベトナム戦争後のインドシナ難民の発生でした。日本が受け入れた約11,000人のインドシナ難民の多くが,現在も神奈川,埼玉,兵庫などの地域に定住しています」
と書いてあります。
また戦前のロシア革命の時にも、大量の白系ロシア難民を受け入れていました。
ウィキペディア情報ですが、ロシア革命の翌年時点で、日本には7,251 人の白系ロシア人がいました。その殆どが亡命者/難民です。
難民のなかには野球のスタルヒンのような、スター選手までいました。
かつての日本では現在よりも外国人が珍しかったはず。
とうぜん彼らに対する警戒心も強かったはずですし、純血へのこだわりも強かったはずです。
にも関わらず、日本は大量の難民を受け入れていました。
なぜ日本は難民に門戸を閉ざすようになったのでしょうか?
- 経済難民や偽装難民への警戒心
- 欧州が難民を受け入れるのは、地理的に近いから
- ベトナム難民を受け入れたのは、アメリカからの圧力が原因
- 白系ロシア人の受け入れは、共産主義打倒が理由か
- 革命家の亡命を受け入れていた歴史はあるものの……
- 人道的見地と国際関係を天秤にかけるという視点
経済難民や偽装難民への警戒心
Photo credit: Joshua Zakary on Visualhunt / CC BY-NC
難民への壁が一挙に高くなったのは、1989年の事件がきっかけだと思われます。
ベトナム戦争が終結した後も、ベトナム・ラオス・カンボジアから粗末なボートで漂着する人々(いわゆるインドシナ難民)が大勢いました。
その多くは華僑や華人だったそうですが、社会主義への移行、ポル・ポト政権下での圧政などで累計144万人の難民が発生したとされます。
本当に困った末の脱出劇だったら、隣国と言うこともあり、日本も彼らを受け入れたのかも知れません。
しかしそうとばかりは言えないのが国際社会。
ちょうど1980年代に入ってから、中国で鄧小平による改革開放路線が始まりました。
一部の中国人は、ベトナム難民を装うことにより日本に漂着するようになったのです。
とくに酷かったのが1989年。
入国管理局の調査の結果、ベトナムからの難民を自称した漂着者2804人のほぼ全員が、中国人だということが判明しました。
日本政府は人権擁護団体などの反対を押切り、経済難民を受入れない方針を決定。
翌年6月までに、1520人が中国に強制送還されたそうです。
おそらくこの事件がひとつの判断材料となり、難民への態度も硬化しているものと考えられます。
欧州が難民を受け入れるのは、地理的に近いから
シリア難民の子供たち。ヨルダンのアル・ラムサにあるクリニックにて(2013年8月27日撮影)wikimedia / CC BY 2.0
欧州に関して言えば、「難民の多くは自分たちの旧植民地からやってきている」とか「地理的に近い」という事情があります。欧州人にとって、中東やアフリカは自分たちの庭のようなものです。日本とは感覚が違うのです。
シリアのように旧宗主国であるフランスが受け入れない場合もありますが、たぶんに地理的な近さが受け入れの土壌となっているのだと思います。
特にドイツが積極的に受け入れていますが、これはメルケルの個人的決断によるものが大きいようです。
受け入れの数値目標を先行させ、偽装かどうかの判断は重視していません。
州単位で難民を割り当て、審査と住居提供、移動制限を課していますが、大変なようです。
おまけに EU には域内の移動の自由を認めるシェンゲン条約があるため、ドイツが受け入れた難民が欧州各国へ拡散する可能性が考えられます。そこでドイツの受け入れは、非難の嵐に晒される結果となっています。
またアメリカに関しては、政治工作を行って離反させた反体制勢力が政権を取れなかった場合、アメリカが責任をもって彼らを引取る、という密約をもとに行動している場合が少なくないようです(フロリダの亡命キューバ人などが、このケースでしょうか)。
ベトナム難民を受け入れたのは、アメリカからの圧力が原因
ベトナムのボートピープル(wikimedia 15 May 1984撮影)Public Domain
いろいろ調べていくと、日本は一貫して難民に冷たい姿勢を保ってきたようです。
ではなぜインドシナ難民を受け入れていたのかというと、「親分」であるアメリカの要請があったからというのが理由のようです。
「東京市民活動コンサルタントArco Iris」という団体のウェブサイトによると
日本では1978年、政府が政治判断によってインドシナ難民の受け入れを決定したことによって、本格的な難民政策が開始されました。(中略)
日本のインドシナ難民の受け入れについては、冷戦体制のもとで、ベトナムからの大量の難民を引き受けなければならない状況にあったアメリカ合州国による強力な圧力があったと言われています。その結果、日本は合計8000人以上のインドシナ難民を受け入れることになりましたが、これはすべて入管法の枠ではなく、特別な判断として行われたものです。
とのことです。
また日本近海に漂流しているボートピープルを見殺しにすることは、国際社会から大きな批判を浴びることを意味します。一旦受け入れてしまったが最後、最終的な目的地に至るまでの通過国として振る舞うにも限度とがあり、かなりの人数を受け入れざるをえなかったという側面もあったようです。
そうしてインドシナ難民の流入がほぼ鎮静化した80年代後半以降になると、日本の難民受け入れは1981年に制定された「入管法(出入国管理及び難民認定)」に基づいて行われるものが主流となりました。
つまりベトナムなどからのボートピープル受け入れは、超法規的措置だったのです。
原則は「難民は受け入れない」で一貫しているのです。
白系ロシア人の受け入れは、共産主義打倒が理由か
コソボ難民たち 1999年3月撮影: United Nations Photo on VisualHunt / CC BY-NC-ND
白系ロシア人(反ロシア革命派)を受け入れていた背景ですが、国際的な反共産主義的な機運が、亡命者の受け入れを後押ししていたと考えられます。
なにしろ日本はロシアの共産主義革命に反対して、1918年〜22年までシベリアに出兵しているくらいです。
関東大震災の混乱に乗じて、社会主義者10人を刺殺(亀戸事件)やアナキストの大杉栄一家を絞殺するなど、ずいぶん荒っぽいこともしていました。
社会主義つぶしの一環として、反革命派を受け入れる動機は充分にあります。
もちろん地理的な近さも理由の一つとして考えられると思います。
とは言え、第1の理由は人道的な見地よりも共産主義に対する警戒心だったのではないでしょうか。
革命家の亡命を受け入れていた歴史はあるものの……
日本にはアジアの革命家達を受け入れていた時期がありました。
孫文とボースが有名ですが、朝鮮の金玉均、中国の蒋介石、ベトナムのファン・ボイ・チャウも日本を拠点としました。
しかしそれは日本の「アジア主義」と無関係ではありませんでした。
アジア主義には頭山満の玄洋社的な性格のもの(欧米列強の脅威の排除とアジアとの連帯を目指す)と、陸軍が唱える覇権主義(日本を盟主として八紘一宇を実現する)とがありましたが、いずれにしても政治が動機であり、純粋に人道主義的観点だけで動いていたわけではないと思います。
これは私見ですが、現在難民を受け入れている国々も政治的な理由を抜きに難民を受け入れている事例は多くないのではないでしょうか?
先進国が受け入れている難民は
が上位5ヶ国を占めます。(典拠:UNHCR 2018年)
シリア、アフガン、ソマリアで難民が発生する理由は、欧米の中東介入と無関係ではありません。
Photo credit: UNMISS MEDIA on VisualHunt.com / CC BY-NC-ND
一方日本における難民申請者の上位5ヶ国は
だとされています。 (出典:法務省「平成30年における難民認定者数等について」)
法務省は「大量の難民・避難民を生じさせるような事情のない国からの申請者」と説明しているそうですが、たしかに欧州にやって来る難民と顔ぶれが違います。
人道的見地と国際関係を天秤にかけるという視点
Photo credit: jonathan mcintosh on Visual Hunt / CC BY
難民問題でしばしば話題になるのがクルド人です。
埼玉県の蕨市と川口市周辺に1500人のクルド人が在住しています。彼らは難民申請を繰り返していますが、今のところ受理された人はいないようです。
彼らはトルコ、イラク、シリア、イランの各国に跨がる「クルディスタン」と呼ばれる地域に住んでいますが、少数民族であるが故に差別や弾圧の対象になっています。
他所の国に行きたいと考えるのは当然でしょう。
しかしもし戦前の日本から朝鮮人や中国人が「差別」を理由に「亡命」を希望したら、他国は受け入れたでしょうか?
もし日本の近隣諸国が彼らに門戸を開いたら、日本との関係は悪化したでしょう。
つまり人道的配慮だけで決められる問題ではないと思います。
ある種の覚悟が必要でしょう。
もしクルド人の受け入れを決めた場合、「親日国」と呼ばれるトルコとの間に懸念材料が生まれます。
もちろん「甘い言葉ことばかりではなく、厳しいこともしっかり言うのが本当の友達」だという視点に立つならば、なにも恐れることはありません。
しかしあなたにそれだけの覚悟がありますか?
今日の記事は以上です。
またのお越しを、お待ちしております!
【追記】
ウェブマガジン「ニッポン複雑紀行」に掲載された「冷戦下の代理戦争から東京の生活戦争へ。シャン民族料理店「ノングインレイ」スティップさんの人生」(2020.08.27掲載)が、この件を考える上で参考になりますね。
まだ日本がインドシナ難民を受け入れていた時代の話です。
高田馬場でラオスのシャン料理店を経営するハンウォンチャイ・スティップさん(72歳)の過酷な半生が綴られています。
まさか高田馬場で料理店を営む店主が、祖国ラオスの内戦でCIAの通訳を務め、内戦終結と同時にアメリカに裏切られ、命からがら故郷を逃れて最終的に日本にたどり着き、ゼロから身を立ててきた人だとは…。何度も読んだ。読むたびに違う所で驚嘆し考えさせられる。貴重な個人史https://t.co/JwzhHNkktF
— Miyuki Nozu (@miyukiest) August 27, 2020