メケメケ

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町工場や倉庫がひしめく運河のほとりから、セカイに向けて書き綴るブログ。

洋画の世界で翻訳家の著作権が蔑ろにされている!?(NYT記事翻訳)

Pic by Trid India from Pixabay


どうも。檀原(@yanvalou)です。 

Open AIが開発したChatGPTが話題ですね。ChatGPT以外にもAIを利用したさまざまなサービスが公開され、利便性が高まっています。

今日はそのうちの一つ、翻訳サービスのDeepLの助けを借りて、映画と翻訳にまつわる記事をご紹介します(AIの出力したものをコピペせず、だいぶ手を加えています)

じつは英語圏で映画を作る場合、翻訳ものの小説が原作だったときは、翻訳者にまったく印税が支払われないらしいのです。にも関わらず、翻訳したテキストは一方的に使われてしまうとのこと。ひどい話ですね(日本ではどうなんでしょうか……?)。

この問題を扱った記事です。

原文はwebマガジン"Words Wtihout Borders"にあります。 

wordswithoutborders.org

 

記事で扱われているのは、日本でも配信中のNetflixオリジナル映画『ロスト・ドーター』。原作は小説でイタリア語。それが英語に翻訳されてヒットし映画化につながったようです。同原作は和訳されており現在も購入可能です。

以上の予備知識を踏まえてお読みください。

どうぞ。

 

●消えた翻訳家

マイケル・F・ムーア

2022年3月10日

マイケル・F・ムーアが、エレナ・フェランテ原作の映画『ロスト・ドーター』のエンドクレジットから、翻訳者アン・ゴールドスタインが消されたことについて議論する。

映画界では賞レースの季節を迎え、ギリシャの島で休暇を過ごす中年の学者を描いた映画『ロスト・ドーター』(マギー・ギレンホール監督)に賞賛の声が集まっている。この映画は、大ヒットした「ナポリ四部作」の著者であるイタリア人作家、エレナ・フェランテの同名小説を原作としており、2人の友人たちの50年近くにわたる歩みを描いている。同作品は数々の権威ある賞やノミネートを獲得してきた。最近では、主演女優のオリビア・コルマンとジェシー・バックリーがアカデミー賞にノミネートされ、ギレンホールがかつて賞をとったヴェネツィア国際映画祭の脚色賞部門(adapted screenplay)にノミネートされた。私はここに、「(クレジットのない)翻訳からの脚色賞("adapted from an (uncredited) translation ")」を加えたい。

2006年に出版されたイタリア語の原作『La figlia oscura』で、著者フェランテは「ナポリ四部作」で深く探求してきたテーマを再現している。それは女性を縛るさまざまなしがらみとの闘いである。女性を狭い役割に追いやる社会のしがらみ、期待と失望で相手を苦しめる母娘の間のしがらみ、女性同士を近づけたり遠ざけたりする友情のしがらみなどが該当するが、いずれも人形が重要なモチーフとなっており、関係性の力強さと脆さを表している。

2008年にアン・ゴールドスタインによって英訳された小説『失われた女の子』(日本語版は早川書房・刊)は、現在と過去を行き来する一人称の物語である。語り手のレダナポリ出身で、フィレンツェの大学で英語の教授をしている。小説の冒頭で彼女は南イタリアのビーチに座りながら、突如として登場した大家族を眺めている。若い母親のニーナとその娘エレナ、この母娘が身を寄せあう姿から目が離せなくなる。レダはこの家族の中に、身重の女性ロザリアがいることに気づく。レダは「ニーナは美しく、ロザリアは醜い」と感じると同時に、その判断の根底にある格差に思い至り悶々とする。この場面でレダは、自分と女性たちとの関係を振り返ることになる。二人の娘は、「臍の緒を切ったにもかかわらず」、かつては自分が胎内で包み込んでいた被造物である。一人は彼女に似ているが、もう一人は似ていない。前夫のジャンニは、「自分の体からコピーされたものを見る暇もなく、生殖がどうなったかを見ていた」。彼女は母親を思い出し、どのような諍いがあったかを追想する。「私は自分に対する密かな怒りを、母に向かってぶつけたのだ」。学者として成功するために、レダは娘、母、そして妻としてやっていく、という相反する要請と折り合いをつけなければならなかった。

この小説を映画化するにあたり、ギレンホールは登場人物の国籍を変え、英語を話させるという選択をした(『ハウス・オブ・グッチ』でイタリア人がおかしなピジン英語を話していたのとは対照的である)。舞台は南イタリアからギリシャの島へと移されている。レダはリーズ出身のイギリス人で、マサチューセッツ州ケンブリッジでイタリア語と比較文学を教えている。海辺の騒がしい家族はナポリではなくニューヨークのクイーンズ区の出身だ。この変更により、彼らの威圧感は少し薄れている。小説の中で、海辺のホテルのボーイがレダに「彼らは悪い人たちだ」と忠告するのは、マフィアであることを示唆している。一方クイーンズ出身の悪人というのは、それほど犯罪的な意味合いを含んでいない(筆者の個人情報の開示:私はクイーンズに20年間住んでいる)。

映画はフェランテの物語世界の様相を浄化している。小説の中で、レダは浜辺で見る人々の身体に嫌悪感を抱く。人々は太りすぎで日焼けしているのだ。しかしニーナ……そしてレダ自身も考慮に入れるべきだろう……は例外である。ロザリアは「気取った醜い体」だ。ニーナの夫はがっしりした年配の男性で、「大きなお腹があり、水着の上から肋骨の弧に走る深い傷跡によって、膨らんだ肉の半分に2分割されている」。大家族のメンバーは、「やつれた顔の太った男、仰々しく裕福な女、肥満の子供」である。しかし原作における登場人物たちの特徴は、映画の中で役を演じる俳優たちからは見受けられない。華やかなダグマラ・ドミンシュクは、義姉のカミーユを演じている。ニーナの夫はサーファーのように日焼けした筋肉質の青年だ。逆に小説の中で若々しくスリムでな容姿を誇っていたレダは、年相応に肉のついた数少ない登場人物である。

映画は、物語の核心を突くテーマを単純化している。レダは子供たちが幼い頃、3年間も育児放棄していたのだ。小説では、ニーナがレダに理由を説明するよう促す。レダは最初「子どもたちを愛しすぎていて、子どもたちへの愛が私を私らしくさせないように思えたから」と言ったのだが、「あの子たち二人がいないと気分が良かった。まるで粉々になった自分の欠片が元通りになるみたいに」と付け加えた。しかし3年後、彼女は娘たちの元に戻ってくる。それは娘たちを愛するためではなく、あくまで自らを愛するためだった。ニーナが尋ねる。「そして、戻ってからは?」「私は自分のために生きるようなことはせず、2人の子供のために生きることに決めた。少しずつうまくやれるようになったわ」。同じシーンが、映画では2行の台詞で表現されている。「私が戻ったのは、子供たちがいなくて寂しかったから。私はとても自分勝手な人間なのよ」

登場人物の言語と国籍、そして舞台の変更には、若干ぎこちなさが残っている。ギリシャ語はメニューやウーゾのボトルにさえ現れることはなく、地元の荒くれ者たちの台詞が断片的に出てくるだけである。カリーがレダに初めて会ったとき、彼女はクイーンズ出身かと尋ねるが、オリビア・コールマンの紛れもないイギリス訛りを考えれば、クイーンズ出身者であるわけがない。後のシーンで、レダがハイキング中のカップル(そのうちの一人は、HBOの映画『My Brilliant Friend』のナレーター、アルバ・ロルヴァッチャーが演じている)に会うと、観客はレダが翻訳を学び、イェーツ(訳注:アイルランドの詩人・劇作家)やオーデン(訳注:英国の詩人)の詩をイタリア語に訳したことがあることを知る。

この部分は映画の中で何度も出てくる翻訳に関する言及だが、本作自体が小説の「翻訳」であるという立場を意識したものだ。レダは学問の 隘路 あいろ で苦労していたが、成功した夫に遅れをとりながらも、イギリスで開かれる会議に出席することになる。その会議のテーマは、小説ではE・M・フォースター(訳注:英国の小説家)、映画ではオーデン(訳注:英国の詩人)であり、散文から詩へと変化している。そこでレダは、学会で最も権威のあるハーディ教授が演壇から自分を褒め称えるのを聞いて驚く。映画では、彼(*訳者註:「彼女」の誤記では?)の論文について、小説よりも深く掘り下げている。ハーディ教授は「レダの研究は、それまでわずか1本の論文しか発表していなかったものの、ポール・リクールの先駆的な理論を先取りしたものである」と主張する。リクールは「言語的もてなし」という用語をつかって、翻訳におけるホスト言語とゲスト言語の間の理想的な仲介を言い表した人物である。論文発表後、ハーディ教授はレダと気さくに接し、彼女がイタリア語にしたオーデンの詩「危機」(第二次世界大戦勃発時、ドイツがポーランドに侵攻した際に書かれた詩)の一節を暗唱しあい、夢のような時間を過ごす。

監督のマギー・ギレンホールは、この小説の映画化に際して、翻訳者としての顔も持つようになった。「ニューヨーク・タイムズ」紙のプロモーション・インタビューで、彼女はこんな質問を受けている。

Q:翻訳というテーマは、登場人物にとって明らかに重要です。主人公のレダはイタリア文学を翻訳していますが、あなたも原作小説を翻訳していますよね。あなたにとって、翻訳者という役割はどのような意味を持つのでしょうか?

A:レイチェル・カスクの著書『Kudos』の中に、こんな一節があります。適用について考えていたので、何度か思い返すことがあったのです。引用します。 「私は、まるでそれが間違って壊したり殺してしまったりするかもしれない壊れやすいものであるかのように、慎重に、細心の注意を払って翻訳した」。 私はこの一節がとても好きです。(2021年12月29日)

レンホールのインタビューでも、映画のエンドクレジットやプレスキットでも、脚本のベースとなった翻訳家アン・ゴールドスタインについて一切触れられていないのは、決まりが悪い。ゴールドスタインは、『捨てがたき日々(The Days of Abandonment)』を皮切りに、フェランテの英訳作品をすべて手がけている。フェランテが知られざる作家だったことと「ナポリ四部作」の成功が相まって、ゴールドスタインは今日アメリカで最も有名な翻訳家の一人となった。フェランテのすべての英訳作品の扉のページに彼女の名前があるが、表紙にクレジットはない。そして主要な新聞で数多の特集記事が組まれている。フェランテが英語圏で成功したのは、ゴールドスタインの堅実でエレガントな翻訳のおかげだと言う人もいるくらいだ。彼女は「無名の」、あるいは「見えない」翻訳家とは言えない。しかし『ロスト・ドーター』のエンドクレジットには、ケータリング業者や運転手、撮影現場の衛生管理者の名前など、時間にして7分ほどの人名リストが大写しになるにも関わらず、本作の製作者はこの映画を制作可能にした翻訳者の名前をクレジットするスペースを見つけなかったのだ。翻訳の出版元であるヨーロピアン・エディションズ社の社名は大書されているというのにだ。ヨーロッパ社は翻訳者の著作権を否認することを社の方針としており、これは翻訳者の仕事の創造性を事実上否定する行為である。また、ごく一部の例外を別として、ヨーロッパ社は翻訳者の名前を表紙から消し去っている。一方翻訳本の表紙に翻訳者の名前を載せるキャンペーンは昔からあり、最近では著者協会(the Society of Authors)が公開書簡とハッシュタグ「#TranslatorsOnTheCover」を通じて記載を復活させたが、表紙にクレジットされていることは必ずしも翻訳者の著作権と作品の所有権を保証しない。また著作権は、映画化などの二次的著作物に自分の翻訳を使用することを許諾したり、そこから収入を得る権利を翻訳者に自動的に付与するものでもない。

本件の問題点をより深く理解するために、ジェシカ・コーエン、ジュリア・サンチェス、ウマール・カジーとともに、全米作家協会(The Authors Guild)が発行する「文芸翻訳標準契約(Literary Translation Model Contract )」を起草したアレックス・ザッカーに話を聞いた。彼は「文学的な翻訳作品は、著作権法上、他の創作物と同様に独自性がある」と指摘した。それは文芸翻訳標準契約の解説にある通りである。「翻訳は、作品を単に新しい言語で表現したものではなく、法律的に言えば、既存の作品のいくつかの要素または全体を取り入れながら、その作品に新たに著作権上の著作権を加えた新しい作品であり、その独自性の範囲内で著作権保護を受ける権利がある」。

映画化の許諾権は別の問題である。著作権は、最終的な映画化において翻訳者の承認を要求するが、翻訳者に著作権料が提供されることを保証するものではない。このような問題は、補助的な権利として別途交渉する必要がある。文芸翻訳標準契約の解説でも「翻訳者は可能な限り、書籍以外の物理的または電子的な媒体での使用(例えば、ラジオ、テレビ、映画、舞台、引用、字幕)について、可能な限りいつでも構わないが、翻訳の全部または一部を許諾する権利を保持することを推奨する」と書かれている。というのは翻訳書の売れ行きが良い場合、出版契約を交渉したときに予想していたよりも価値が高くなることがあるからだ。

先に引用した「ニューヨーク・タイムズ」の記事に対して、「ニューヨーカー」誌の元スタッフ、メアリー・ノリスは、映画がゴールドスタインの翻訳を認めていないことに加え「この映画で最も印象的なセリフは小説の英語版から直接引用されている」と異議を唱える書簡を編集者に送付した(2020年2月23日)。マギー・ギレンホールはインスタグラムで手紙をリポストし「これはまさに正しいことです。これが素晴らしい #アンゴールドスタイン(#thelostdaughter の英訳者)に対する多くの感謝の言葉の先駆けにしましょう、この人がいなければ、映画化は実現しませんでした」と記した。マギー・ギレンホールが過失の一部補うかのように、インディペンデント・スピリット賞の脚本部門の受賞スピーチで、アン・ゴールドスタインの存在を認めたことは喜ばしい。

Netflixのようなストリーミングサービスが世界中でビジネスを拡大するにつれ、コンテンツの多様化のために文芸翻訳に注目する傾向が強まっている。翻訳者にとって良い機会であるはずだが、士気を下げることにもなりかねない。『ロスト・ドーター』の件では、翻訳者は自分の仕事の成果から得られるべき信用と収入のいずれをも否定されたのだ。

* * *

2〜3ヶ所、訳がやや怪しい個所がありますが、おおむね正しいはずです。

日本のコンテンツ、特にマンガが海外発信されたり、日本以外の場所で映画化される場合、翻訳家の権利がどうなっているのか気になります。

なおこの記事の著作権は「ニューヨークタイムズ」に属します。語訳や誤植に気がついたらお知らせください。

今日の記事は以上です。
またのお越しを、お待ちしております!