メケメケ

メケメケ

町工場や倉庫がひしめく運河のほとりから、セカイに向けて書き綴るブログ。

戦争中の医学犯罪を糧にして開発された薬品があるとしたら、それはどう扱われるべきなのか?

どうも。檀原(@yanvalou)です。

以下、「である体」でつづけます。

* * *

先日、某メディアのテストライティングに応募した。
「下記の『課題URL』内の指示に従って、記事を作成してください」というお題で、五つの項目が列挙されていた。僕が選んだのはその内の一つ

 ▼

虹波 こうは とは何か?(京都新聞 2022年12月5日付)

www.kyoto-np.co.jp

 

である。

 

「虹波」というのは先の大戦中、日本陸軍が開発していた薬物である。上記リンクはハンセン病患者を人体実験のような状態で被験者に仕立て上げていたということを報道したもので、死者まで出ていたということを問題視している。

 

しかし調べたところ、この「虹波」、名称を変えて現在市販されているのだ。そこでその点を踏まえ、文字数その他のレギュレーションに沿って書いたのが以下のテキストである。

 

虹波とはなにか

 

2022年12月初旬、熊本県合志市国立ハンセン病療養所「菊池恵楓園」で、第7陸軍技術研究所の嘱託だった宮崎松記園長の指揮により、「虹波」と名付けられた薬剤が投与され9人が死亡したという資料が公になった。投与は1942年12月から6〜67歳の同園入所患者370人以上に対し行われたとされる

 

虹波とはなにか?

 

問題となっている虹波とは、感光剤を合成した薬剤だ。感光剤は写真フィルムの増感剤として知られるが、免疫活性や抗菌などの薬理作用を持つ色素も存在している。こうした点が評価され、陸軍は太陽光線の人体における利用度を促進=「極寒地作戦における耐寒機能向上」、体質改善・新陳代謝の亢進・闘病力の増強=「戦闘に必要なる人体諸機能の増進」を計ろうと考えた。つまり虹波は陸軍の「機密薬」だった。

 

もっとも軍の意向とは裏腹に、療養所サイドでは虹波をハンセン病の治療薬として期待していたようである。現在ハンセン病の治療にはプロミンが用いられているが、この当時はまだ決定打となる薬がなかった。戦前の日本ではセファランチン、タイフウミン(大風子油を静脈注射用にしたもの)、チバ、リファンピシンなどが治療薬としてテストされていた。虹波もそのひとつと受け止められていたのである(虹波はハンセン病だけでなく、結核の治療薬としても期待されていた)。

 

つまり結果はどうあれ、治療的効果などのメリットがありえない「非治療的実験」ではなかった

 

なぜハンセン病患者が選ばれたのか?

 

ハンセン病とはなにか

 

ハンセン病は「らい菌」による感染症で、かつては「らい病」と呼ばれる不治の病だった。発病の兆候は皮膚にできる斑点で、やがて末梢神経が麻痺し、病状が進行すると顔や手足が変形する。運動機能、視力、知覚に障害が生じると回復が困難で、治癒後も後遺症が残ってしまう。

 

ハンセン病に対する偏見とその歴史

 

かつては非常に感染力の弱い菌感染症だということが知られておらず、患者はその外見や精神に残った障害が原因で差別され、人里離れた療養施設に隔離されていた(家族に差別が及ぶのを怖れ、自ら施設に入る人もいた)。

 

隔離政策は1907年の「(旧)癩(らい)予防法」から1997年の「(新)らい予防法」の廃止まで1世紀近くつづいた。1度収容されると生きて出ることは適わない。行くあてのない高齢の患者が現在も施設に留まっている

 

ハンセン病は「日本書紀」にも出てくるような古くから知られた病気だが、1930年代から60年代にかけて「無らい県運動」という社会運動が行われたことが知られている。各県内の市街地からすべてのハンセン病患者を摘発し療養所に収容しようという動きで、患者への差別を一層あおり立てた。太平洋戦争中は中断されたものの、こうした世情が軍による虹波投与実験の前後に存在していた。

 

なぜハンセン病患者が選ばれたのか?

 

ハンセン病患者は一生生きて出られない療養所という閉鎖空間に閉じ込められていた。外部からの目が届かない密室では不慮の事故が起きても隠し通せてしまう。この構図は中国人捕虜らに化学兵器開発の人体実験を行った陸軍731部隊の収容施設の環境と共通している。

 

20世紀前半は優生思想が信望された時代だった。ダーウィンの進化論と遺伝学とを結びつけた優生学の考え方は、人間を選別し、優劣をつけ、序列化した。ナチスドイツがアーリア人至上主義とユダヤ人排斥を唱えるのと同時に、障害者・高齢者・末期患者・奇形児などを大量に安楽死させていたことはその現れである。

 

ナチス・ドイツの医療政策が、優生主義に基づき精神病患者や障がい者を排除するものであったのに対し、日本ファシズム下の優生主義は、ハンセン病患者への処遇において、もっとも鮮明にあらわれた」(藤野豊 『日本ファシズムと医療ーハンセン病をめぐる実証的研究』岩波書店 1993年

 

こうしてハンセン病患者が軍の機密薬の被験者として狙い撃ちされたのだろう。

 

投与実験の結果は?

 

報告書によると、実験開始当初は1千名にも及ぶ全患者から熱烈な支持を受けたというこの実験は、散々な結果に終わった1944年5月25日に宮崎園長らが第7研究所に提出した報告書によれば、同年3月の実験結果は有効率が2.8%、副作用発現率が22.2%という結果となった。1948年11月以降は治療を拒否する患者が続出し、研究をつづけることが困難になったという。

 

今回開示された虹波関係簿冊は25点。遺族らの訴えにより、戦前同園において入所者の骨格標本を作成した問題を検証する過程で明らかにされた。一連の資料には患者を「材料」と呼んでいたともあり、死者が出ていたことも考え合わせると非人道的な医学犯罪であったと言えよう。

 

戦後、虹波はどうなったのか

 

虹波実験の成果

 

ところで虹波はその後どうなったのだろうか? 虹波研究の成果は終戦後の早い段階で学会発表されている。

 

リンク1)虹波による傳染性貧血の治療試験(1948年の実験の論文)

 

リンク2)虹波1號及び12號が癩血清のWassermann 反應(1952年発表)

 

つまり死者が9人も出たという問題があったにせよ、研究は秘匿されることはなく、彼らの死はまったくの無駄死にではなかった。じつはそれどころか虹波は歴とした錠剤として認可され、現在市場に出回っているのだ(*註)。ただし製品名は虹波ではなく、効能もハンセン病治癒ではない。虚弱体質・貧血の改善やアレルギー疾患対策、皮膚トラブルの解消などを謳った常備薬として販売されている。

 

想定していた薬効とは異なる方向で効果が確かめられるというのは、新薬の開発ではよくあることである。紆余曲折はあったにせよ、市販されている以上、虹波の開発は成功したと言わざるを得ない。

 

戦時に開発された医薬品のフェアユースはどこまで考慮されるべきか

 

近年エシカルな消費が問われている。食品や工業製品に対して厳しい眼差しが向けられているが、戦争中の医学犯罪を糧にして開発された薬品があるとしたら、それはどう扱われるべきなのか? 虹波の投与実験は私たちに重い問いを突きつけていると言えよう。

 

*註

 

我国における感光色素の発展の歴史(452ページ) …国立研究開発法人 科学技術振興機構

「 クリプ トシアニン(イル ミノールU)」

「umlnolUIIに強心作用のあることが見出された。昭和17年陸軍の技研は各大学の協力を求めて医,動,植物の研究組織を作り軍機保護法の下に研究発表を禁じた。この間に虹波と命名したUII色素は火傷,凍傷に卓効ありとされ」

 

ルミン®Aの有効成分

 

* * *

 

この問題、どうなんだろう?

応募したメディアはこういう不穏な原稿が返ってくるとは思わなかったらしく、事前に「こんな風ですが問題ありませんか?」と確認したものの、あっけなく落とされてしまった。

つくづく戦争は根深い問題を残すな、と思った次第だ。