ども。檀原(@yanvalou)です。
クリスマスイヴにあたる12月24日に観た映画の話をします。
日本にはいくつかのタブーがありますが、皇室に関するそれは「菊タブー」と呼ばれます。
日本では長い間、側近など一部の人間を除いては天皇の顔を観ることは許されず、声を聞くことも暮らしぶりを知ることも適いませんでした。
「知ることが出来ないからこそ、そこに権威が生まれる」というのは文化人類学の世界ではよく知られた真理です。
わかりやすいのはフリーメイソンなどの秘密結社。
向こうからはこちらの動向が丸見えだが、こちらから相手のことは分からない。
その非対称性が権威の源泉になります。
その延長線上ということなのでしょうけれど、長い間映画の世界では天皇陛下を扱うことはタブー視されてきました。
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ですから2005年にロシア・イタリア・フランス・スイス合作で、昭和天皇を主人公にした『太陽』(アレクサンドル・ソクーロフ監督)が制作されたとき、日本国内に軽い衝撃が走りました。あくまで軽い衝撃で済んだのは、メディアがほとんど無視したからです。
一部のマイナーなメディアが熱心に取り上げただけでした。
主演がイッセー尾形というのも、微妙な感じになった理由の一つかも知れません。
大金を稼ぐ大スターが主役を務めていたら、メディアの対応も違っていた可能性があります。
そんな経緯がありましたから、お茶の間で映される皇室の姿は例外で、本格的な皇室ドラマは不可能だと思っていました。
ところが今上(明仁/平成)天皇の学生生活を主題にした映画が作られていたというのです。
それが1957(昭和32)年公開の日活映画『孤獨の人』です。
チラシの惹句は
と書かれています。
どんな内容なのでしょうか。
若き今上天皇の「銀ブラ事件」とは?
皇室の生活は決まり事だらけ。籠の中の鳥のようなものです。
修学旅行に行けば、その日の宿泊先や食事の内容まで新聞で報道されてしまいます(時代ですね)。
夜クラスメートとトランプしていても、従者が現れて「陛下、そろそろ就寝の時間です」。
そんな毎日です。
デートもままなりません。
劇中、当時17歳だった津川雅彦演じる主人公は、皇太子が意識している女子生徒を誘ってグループデートを画策しますが、宮内庁に阻止されます。
すべてがそんな感じなのです。
映画のカメラワークも宮内庁に気兼ねした訳ではないのでしょうけれど、ぜったいに皇太子の顔を映さない徹底ぶり。
殿下がカメラを構える場面ではさすがに顔が映るかと思ったのですが、カメラのボディがマスクのように目も鼻も隠していました。
役者が演じていても、「見えないからこその神秘性」は保持されていたのです。
皇太子殿下と一般人の間には、超えられない線が引かれているのですね。
ですから、幼稚園時代から皇太子と「ご学友」だったグループはクラスの中でも特権階級。
なかにはそれを鼻にかけている者もいます。
しかし主人公は、皇太子がかわいそうな「孤獨の人」に思えて仕方がありません。
そこで主人公に同調する一派が一計を案じ、皇太子を夜の銀座に誘い出します。こっそり喫茶店に行くのです。
陛下は護衛抜きで出かける機会がほとんどありません。
ましてや夜の銀座の自由な空気など一度たりとも吸ったことがないのです。
そこで「目白の方にご案内したい」と同級生らがうまく騙して、首尾良く連れ出すのですね。
まるでオードリー・ヘップバーンの映画「ローマの休日」のようです。
この「銀ブラ」には主人公は同行せず、銀座でデート中にばったり殿下一行に出くわす、という設定になっています。
そこで「貴様ら、ついにやったな!」と級友たちを英雄扱いするその姿につよい共感を覚えます。
(友人を「貴様」とよぶのが戦前のエリートみたいですね。この呼び方、いつまで続いたのでしょうか?)
この「銀ブラ事件」は若干アレンジしてはいるものの概ね史実で、知る人ぞ知るエピソードのようです。
史実によると、橋本明(橋本龍太郎の従兄弟)、千家崇彦と三人で高級喫茶店「花馬車」に行き、橋本の彼女と合流して一杯99円のコーヒーを飲み、その後洋菓子屋「コロンパン」でアップルパイと紅茶を楽しんだといいます。
ところが道中銀座4丁目あたりで4人組の慶應ボーイが「殿下こんばんは」と挨拶したそうですから、周囲には分かっていたのです。
それはそうです。
皇室の顔は知れ渡っていますからね。
すぐに大騒ぎになり、銀座の目抜き通りは20~30メートルおきに警官が配置される始末。
これが事件の顛末で、学友二人は警察と皇室関係者に厳しく叱責されました。
「ローマの休日」のようなロマンチックな展開はなかった訳ですが、逆にそれが日本らしいともいえます。
映画『孤獨の人』には原作があった!
この「銀ブラ事件」を中心に学習院で同級生だった藤島泰輔が書いたのが小説『孤獨の人』(1956年)です。
wikipediaによると
若く清新な「新生日本」にふさわしいともてはやされた皇太子の実像が、学友たちの権力争いの道具となり宮内庁職員らの窮屈な支配に諦めを抱く存在として描かれたことで、その人気は結婚によるミッチー・ブームが起こるまで陰りを見せた。
とのことですが、それだけでなく学習院高等科内での同性愛についても取り上げるなど、皇室を描いた作品としては破天荒な内容だったようです。当時「『暴力教室』学習院版」と喧伝されたそうで、アナーキーな作品だったことが伺えます(当然ながらかなり売れたそうです)。
上映終了後に行われた高崎俊夫さんのトークイベントによると、じつは学習院OB・OGにはアナーキーな人材が多いそうで
- 三島由紀夫(小説家 初等科~高等科)
- 小野洋子(オノヨーコ;芸術家 初等科~海外~国内他校編入~女子中・高等科~学習院大学)
- 蓮實重彦(映画評論家 初等科~高等科)
- 井原高忠(日本テレビディレクター「ゲバゲバ60分」など 初等科~高等科)
- 瀬川昌治(映画監督 初等科~高等科)瀬川昌久の実兄
- 瀬川昌久(ジャズ評論家 初等科~高等科)初等科から東大法学部まで三島由紀夫の同級生で交流があった
- 宮崎駿(アニメ映画監督 学習院大学)
といった人々が学習院の卒業生として知られています。
ちなみにかの上映会には学習院の卒業生が多数参加しており、詳細な質問のやりとりが行われました。
映画の中で学習院高等科という設定で撮影が行われた場所は
だそうです。
また映画を観る限りでは、この当時の高等科は全寮制に見えてしまうのですが、そうした事実はなかったとのこと。
この映画への出演が理由で退学になった学生俳優
上記の通り『孤獨の人』は右翼にとって好ましからざる内容です。
皇室をお迎えする学習院としても決して好ましい作品とは言えませんでした。
本作に皇太子のご学友・舟山役で学習院大学在学中に出演した三谷礼二(芸名:秋津礼二 1934~91年)は、この映画へ出演が理由で退学処分になります。退学勧告は撮影中に行われており「降板すれば不問に処す」と言われたそうですが、既にかなりの撮影が終わっており「スタッフに迷惑はかけられない」という理由からクランクアップまで出演を続けました。
中退した三谷は日活に入社。役者として『幕末太陽傳』『青春の冒険』などに出演しています。しかし役者としての活動には早々と見切りをつけ、制作に移動。さらには日活を退社して海外遊学。1971年年、東京室内歌劇場でオペラ演出家としてデビュー。74年の『お蝶夫人』は、独創的な演出が大反響を巻き起こし、「日本一の演出家」と絶賛されました。
三谷は映画監督の鈴木清順を最初に評価した人物としても知られています。
蓮實重彦はこう語っています。
私の高校の先輩に三谷礼二という、後にオペラ演出家になった方がいるんです。彼は大学時代、『孤獨の人』という映画に出演して、大学を退学処分になっています。『孤獨の人』は学習院の高等科が舞台になっていることもあり、映画の衣装として、私も制服を貸したりしたのですが、三谷さんはその後、日活の宣伝部に移ったので、大学時代の私はよく試写室で公開前の映画を見せてもらいました。ある時、「三谷さん、今日は何か面白いのない?」って聞くと、「清太郎(引用註:のちの鈴木清順)があるから来い」と言われて見たのが、『裸女と拳銃』だった。めちゃくちゃ面白くはなかったけれど、なかなかよかった。次の『暗黒街の美女』(一九五七年)も水島道太郎主演で、その頃の清順さんの映画は、当時日比谷にあった日活の試写室で見ました。飯島正さんなどが来ておられ、胸をどきどきさせながら見た記憶があります。
しかしキャリアの絶頂期に立ったまさにその頃から三谷は病魔に冒されてしまいます。入退院を繰り返し、平成3年3月20日に心不全で死去しました。56歳でした。
フィルムの発見
じつはこの『孤獨の人』ですが、ながい間フィルムが見つからず「幻の作品」といわれていたそうです。
ところが近年、東京阿佐ヶ谷の映画館「ラピュタ阿佐ヶ谷」で発見されたそうで、DVD化された、とのことでした。
実際この日の上映はフィルムではなくDVDだったのですが、Amazonで検索してもヒットしません。発売→即絶版だったのでしょうか?
それはともかくとして、平成という時代が幕を下ろし、新しい元号が始まろうといういまこのとき。
若き日の今上天皇を描いたこの作品を知ることは、ひじょうに意味があると思います。
今日の記事は以上です。
またのお越しを、お待ちしております!