メケメケ

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町工場や倉庫がひしめく運河のほとりから、セカイに向けて書き綴るブログ。

情緒が運んできた日本の涼しさ

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ども。檀原(@yanvalou)です。

まずはちょっと長めのマクラから。
網膜剥離になった前後、ちょうど裸足ランニングのバイブル『ボーン・トゥ・ラン』をオーディオブックで聞いていました。


BORN TO RUN 走るために生まれた ウルトラランナーVS人類最強の“走る民族"

すっかりハマってしまい、本の中で紹介されている「ルナサンダル」と同じコンセプトで作られている「ゼロサンダル」を購入してしまいました。

これらのサンダルの特徴は、一切クッションが入っていないこと。だから裸足で歩く感覚にひじょうに近いのです。雪駄やわらじを履いたことのある方なら、この感覚は分かっていただけると思います。


Xero Shoes メンズサンダル Xero Shoes Amuri Cloud Sandal Charcoal/Black

「夏を乗り切るためのフットウェア」として、ほぼ毎日このサンダルを履いて過ごしていますが、足に伝わる衝撃が吸収されないので、必然的に歩き方が変わりました。副次効果として、へその両脇奥にある腸腰筋から首にかけてのインナーマッスルの流れが意識されるので、首筋が伸びて姿勢が良くなります。さらに普段使わない筋肉(具体的には腿の裏側の筋など)が刺激されるので、身体感覚も変化しました。身体が変わったら、もっと身体の欲求を探求したくなります。

……なんか書いていてショッピング・アフィリエイトサイトみたいな気がしてきたのですが(笑)、ここからが本題。

そんなタイミングでみつけたのが、千駄木で行われた「ゆとん納涼会」でした。

hibachiclub.blogspot.com

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「ゆとん」というのは、和紙を何枚も張り合わせ、荏の油を何度も塗り重ねてつくった夏の敷物です。暑さをしのぐため、畳の上に敷いてつかうのだといいます。

もともと僕は、夏の間は出来るだけ冷房を使わない生活をしていました。すると必然的に「いかにして身体から余計な熱を取りさるか」ということを考えるようになります。

具体的には野菜(特にきゅうり)をたくさん食べるとか、冷や奴を食べるとか、米飯は熱いのですくなくとも昼間は避けるとか、水風呂に入るとか、そんな生活習慣が身につきます。部屋の方も夏になったら配置換えして、風が通るところに机を移動するとか、グリーンカーテンになる植物を植えるとか、そんな工夫を凝らすようになります。

そんな生活があっての「ゆとん納涼会」でした。

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会場となった島薗邸。昭和初期に立てられた登録有形文化財です。

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ゆとんには前々から興味があったのですが、いかんせん見かけなくなった敷物です。こういう特別な機会でもなければ、現物にお目に掛かることもありません。

「まるで金属のようにひんやりする」などと聞いていましたが、さすがにそれは大げさでした。実感として板張りの床と同じくらいでしょう。

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ゆとんです。大事に使えば100年保つそうです。これはミニサイズ。
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ゆとんの裏面には筆文字が躍っていました。

見た目は、フローリングの印刷を施されたビニール製の床敷のようです。しかしその見た目とは相反するように、触り心地はさらっとしています。厚さは4ミリ程度だそうですが、しっかりした強度があります。

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青紅葉を散らした氷柱と火鉢風鈴の音が、涼を添えてくれます。もし畳敷きの部屋でなかったら、目と耳で感じる涼感は台無しになったにちがいありません。つくづく「和室は夏仕様なのだ」と思いました

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氷の表面が紅葉の形に窪み、涼感を高めています

会場となった千駄木の島薗邸の庭は、よく風が通ります。あの涼やかな風は、いったいどこから吹いてきたのでしょう。

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イベント主催者がつくったパンフレットのテキストが秀逸だったので、一部転載します。

「この風はどこで生まれたんでしょうね。」

明珍本舗の工房の隣にある事務所で、火箸風鈴の話を同っていたら、そんな話になった。窓辺には数種類の風鈴がぶら下がっている。

開け放たれた窓の向こう、真夏の日差し照りつけるー方通行の路地には、自転車や日傘をさして歩く女性、たまに車や。バイクのエンジン音が近ずいてくる。その度に、火箸風鈴はその時なりの揺れ方で、街の雑音と混ざりながらその時なりの音を奏でる。工房のはす向かいには小さな鎮守もあって、緑がざわめいていた。


気圧の低いところから気圧の高いところへ流れる空気の流れ。風とは簡単に説明すればそういうことだが、その気圧の違いが生まれる理由はさまざまなはずだ。

屋台で焼き鳥を焼いていて起こった小さな上昇気流。その足元に吹き込んでくる風は隣の金魚すくいの水槽の冷たさ。そんな感じで繋がって、とぎれのない空気の流れは世界中のどこまでも繋がっていく。今、この火箸風鈴を鳴らしている風にはヒマラヤの冷気の成分が僅かなからに混ざっているかもしれない。今、その風は風鈴の音となって私の眼の前に姿を現している。

風を感じるとはどういうことを言うのだろう。触覚。髪をかきあげ、皮膚から気化熱を奪い、涼感をもたらす。同時に目に人る木々や草花を擂らし、視覚に訴える。そして、耳に風鈴の音をもたらす。


風の流れという空気の波が音という波に変わる。


目に耳に皮膚に感じるその風は同じ一つの風で、木々のざわめきや風鈴の音や皮膚の冷たさはその風が、自分の眼の前にやってきてさまざまに姿を変えたものだ。私たちは風がさまざまに変身した姿に出会っている。

その風はどこで生まれたのか。複雑に絡み合い循環する世界で、それを問うことはあまり意味がないかもしれない。職人の手仕事の極意が細部までは合理的に説明できないように、この世界はあまりにも複雑だ。

「涼しい」と感じる事は、無意識の中でそういう世界の循環に身を投じながら、風に吹かれることではないだろうか。それは私たちが自然の混沌の中で生きていると言うことを体全体で感じることでもある。

 

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本来涼しさとは、情緒を含んだものだったのでしょう。
すくなくとも私たちの国では。

今日の記事は以上です。
またのお越しを、お待ちしております!