ども。檀原(@yanvalou)です。
かれこれ3週間前のことになりますが、中華街の善隣門付近に事務所を構えていた信用組合「横浜華銀」の元理事・呉正男さんを取材しました。
呉さんは台湾人ですが、日本軍のグライダー特攻隊の生き残りという経歴があります。そのせいもあって、メディアに取り上げられる機会が多い方です。
ドキュメント映画にも出演しています。
呉さんも出演している酒井充子監督の映画「台湾アイデンティティー」(2013年)
呉さんは台湾西海岸中部の斗六市(嘉義市の近くです)生まれ。台湾の小学校卒業後、1941年に留学生として東京都内の中学校に進学します。軍国少年だった呉さんは留学3年目の1944年に陸軍水戸航空通信学校に陸軍特別幹部候補生として入隊。特別攻撃隊を輸送する大型爆撃機の通信員になりますが、兵を乗せた空母が上海沖で沈没したため、出発は見送りになりました。
神奈川新聞2019年8月24日付
つづいて現・北朝鮮の宣徳飛行場に配属され、沖縄行きの特高要員として訓練を受けます。ここで特高を志願しますが、選から洩れました。戦後、元上官から「長男だから」と理由を訊かされたそうです。
この宣徳飛行場で、呉さんは敗戦を知ります。ソ連兵に連行され、23日後中央アジア・カザフスタンの収容所に抑留されます。シベリアに抑留された方は多いですが、中央アジアの砂漠地帯に送られた例は稀です。砂漠と言っても冬はマイナス20度になるそうで、寒さと飢え、そしてマラリアに苦しみながら帰国の日を待ちわびました。
2年後の1947年7月。帰国が決まり、ウラジオストクに移送されます。ところが帰国はアイウエオ順で、後ろの方の人は抑留が継続されるというのです。ラッキーなことに、当時の呉さんは「大山正男」という日本名を名乗っていたため、日本に帰れる組に入れたそうです。
じつは日本軍に入隊した台湾人の多くは戦後台湾に帰り、そこで中国本土からやって来た国民党政府による大粛正「2・28事件」の犠牲になっています。しかし呉さんは、ソ連で抑留されていたため台湾には帰れず、2・28事件に遭いませんでした。
「ソ連抑留は人生最大の幸運だった」と呉さんは語ります。
現在は台湾出身戦没者慰霊碑の建立のための活動をつづけているそうです。
せっかくなのでツーショットで撮らせて頂きました
さて、上記の話はメディアにさんざん取り上げられているのですが、実際に会って質問しないと分からないこともあります。
個人的に印象に残ったのは「旧制中学を卒業してから70年以上日本暮らし。台湾語がおぼつかなくなりませんか?」という質問への答えです。
「日常会話は問題ないけど、台湾語の演説は2〜3割しか分からない」。
70年以上に渡って日本暮らししていても、呉さんは帰化していません。それでもこうなるんだな、と何とも言えない気持ちになりました。
呉さんは日本人以上に日本人です。韓国の話になったとき、ネトウヨのように彼の国を罵倒したのはご愛敬。「祖国は台湾、母国は日本」と自認しているそうです。
それでも日本への思いは複雑です。
シベリアやモンゴルの抑留体験者であれば受給できるはずの補償金は、日本国籍を有していないため受給できません。
また華銀を退職したとき日本への帰化を考えたそうですが、軍歴や抑留体験など日本のために尽くし味わった経験を説明したにもかかわらず、法務局から「帰化が許可されない場合があります」と何度も念押しされたことに傷つき、帰化申請を取り下げたそうです。
「たとえ申請が認められなくても『あなたなら大丈夫ですよ』と言って欲しかった。日本に裏切られたと感じました」
写真は呉さんから頂いたり、お借りした資料のうち印象に残ったもの。
日本人は自分らの空襲体験や引き揚げ体験は語り伝えますが、旧帝国領内の空襲体験には注意を払いません。日本語の資料が乏しい分野なので、左の台湾の本は貴重です。
右は日本語世代の台湾人が集まったときに歌うという歌集のコピーです。
じつは呉さんは僕の家から自転車で15分程度のところに住んでいます。映画の酒井充子監督のほか、台湾在住の有名ライター片倉佳史さん、李登輝友の会の方々などかなりの人脈をお持ちのようです。台湾関係の活動はしばらくしていませんでしたが、ぼちぼち再開しようと思っています。
今日の記事は以上です。
またのお越しを、お待ちしております!