ども。檀原(@yanvalou)です。
先日、友人の堂本かおるさんのtweetで、アメリカの公共テレビ局PBSが制作した「Asian Americans」三部作のことを知りました。
PBSドキュメンタリー「Asian Americans」がとても面白い。過去から現在に至るアメリカのアジア人。昔から延々と差別されながらも、驚くほど他の人種との邂逅、ミックスもある。 https://t.co/JJnBWDjW7b via @YouTube
— 堂本かおる (@nybct) May 16, 2020
https://www.google.com/search?
Asian Americans Series Preview
ラッキーなことに動画がYouTube上に上がっており、日本からもノーカットで観られたようです。
僕が確認したときは1と2のみ鑑賞可能で、3については既に公開を停止していました。
(現在はいずれも予告編のみ観られるようです)
このなかでひじょうに興味深く思ったのが、日系人のウノ家の物語です。
ウノ家には10人の子供たちがいましたが、長男は日本軍の情報局で働き、3人の弟たちが米軍に従軍しています。
弟の一人はマッカーサーの通訳だったそうで、文字通り一家が血で血を洗う戦いを強いられたのです。
長兄のバディ・ウノは日本で没したため墓が東京にあり(*こちらのウェブサイトによると金沢のようです)、子供たちも都内に住んでいるようです。
そんなバディに関する英文記事をみつけたので、試訳してみました。
原文:Buddy Uno http://encyclopedia.densho.org/Buddy%20Uno/
一番左がバディー・ウノだと思われます(Densho Encyclopedia より)
バディー・ウノ
ロサンジェルスおよび上海のジャーナリストで、第二次大戦中日本政府のために働いた。戦前の日系米人コミュニティーにおいてよく知られた書き手だったカズマロ・“バディー”・ウノ(1913〜1954年)は太平洋戦争を取材するためアジアへと旅し、第二次大戦中の日本政府の仕事でそのキャリアを終えた。
バディー・ウノは1913年に10人兄弟の長男として、オークランドで生まれた。父はジョージ・クメマロ・ウノ、母はリキである。父はアメリカのミッション系寄宿学校でクリスチャンとして成長し、いくらか英語を解した。
父は1905年に渡米し1912年に結婚した。1916年に、一家はソルトレイクシティに転居したが、ジョージはそこでモルモン教会を得意客とする花屋として働いた。
バディーは幼少期の数年を日本の叔父の元で過ごし、1920年に帰米するとソルトレイクシティーの小学校に入学した。1926年に入ると、いまや7人の子供を抱える大所帯となった一家は、ロサンジェルスへ引っ越した。ウノ家はユニオンチャーチに属するクリスチャン家庭で、家庭では英語で会話した。バディーも兄弟も、他の二世同胞たちとは異なり、日本語学校へは通わなかった。バディーはスティーヴンソン中学校、ついでトーマスジェファーソン高校(*訳註:南ロサンジェルスに位置する高校で1916年創立)、そしてコンプトン高校(*訳註:1896年創立。1950年代に移転し、白人校から黒人校へ、そして現在はラテン系の高校へと変貌を遂げている)へと進み、同校を1932年に卒業した。
同校在学中に、バディーは日系新聞「羅府新報」への寄稿を開始した。最初に掲載されたのは「タタール族のキャンパスからの声」と題したコラムである。その後もコラムはつづいたが、もっとも知られたのは「二世のメロドラマ」という一篇であった。1934年から37年にかけて、彼のコラムは「羅府新報」やサンフランシスコ・ベイエリア一帯および太平洋岸北西部の数紙に毎週掲載された。と同時に、バディーは1935年に設立したサンフランシスコ日系アメリカ市民連盟の積極的なメンバーにもなった。
バディ・ウノの話は興味深い。
— 檀原照和@ライター (@yanvalou) May 18, 2020
いい大学を出てもアメリカ社会の主流には参入できない。
だから勢力を拡大していた日本に渡った。
1937年、バディーは日中戦争を取材する特派員として、はじめて中国へ赴いた。日本に住む叔父の助力を得たバディーは、前線に出る機会を得るとともに、日経米人として英語の戦時記者アカウントを取得。アメリカに戻ると、日本側が主張する中国戦線の状況を講義した。多くの中年二世リーダーたち同様、彼は相互理解の架け橋になろうと努め、「二世はアメリカ市民として日本とアメリカの間に立って行動するという特別な使命を持つ」と考えた。彼はさらなる日本理解や日本語能力の増進をはかるため、二世たちに日本へ行くことを薦めた。しかし彼自身の日本語力は貧弱なものでしかなかった。
1936年6月、バディーは再度日本へ渡った。そして翌年1月、日本陸軍の報道局の記者として上海で働き始めた。同年、その日のうちに解放されたものの、日本軍に徴兵されるという体験をし、結果としてアメリカの市民権を失った。市岡雄二(*訳註:日系人の歴史家)によると、これがバディーが母国であるアメリカよりも日本に忠誠を尽くすようになった転換点であったという。バディーは瞬く間に出世を遂げ、日刊紙『上海イブニングポスト&マーキュリー』(*訳註:1929年創刊の英字新聞)および『タイム』や『ライフ』を模倣したニュースマガジンの『アシアナ』と『フリーダム』の編集者になった。
市岡によると、1941年から42に年にかけて報道された陸海軍の連戦連勝に、バディーは浮かれ騒いでいたという。
1943年4月、バディーは上海から東京へと活動の場を移した。連合国側の捕虜によるラジオのプロパガンダ放送のスーパーバイザーを務めるためである。そして翌年10月になると、今度はマニラへと転属された。
日本の対外(対米国)プロパガンダを指揮した長兄と、マッカーサーの通訳を務めた弟。
— 檀原照和@ライター (@yanvalou) May 18, 2020
ある日弟は、兄がラジオ放送でアメリカ軍に話しかけているのを聴いた。
映画みたいな話だ。
1945年5月、バディーはフィリピンのゲリラ部隊に拘束されたが、そのとき飢餓のため体重はちょうど100ポンド(45.3592キロ)しかなかったという。身柄は米国陸軍当局に引き渡され、他の日本人捕虜と共に収容された。このニュー・ビリビッド刑務所収監中に、バディーの日系の知己たちが面会に訪れた。その中には、弟のハワードの姿もあった。
ウノ家の話、どこまでも面白いな。
— 檀原照和@ライター (@yanvalou) May 18, 2020
フィリピンで捕虜になった長兄は捕虜収容所に送られる。そこでフェンス越しに米軍兵の弟と再会する。
バディーが中国と日本にいる間、家族はアメリカの日系人強制収容所に収監されていた。父は12月7日に拘束され、兄弟のうち3人はアメリカ軍に入隊した。末っ子のエジソン・ウノは、戦後日系人社会のリーダーとなり、(日系人の戦時収監補償の)もっとも初期からの強力な活動家となった。
釈放後のバディーは、その余生を日本で送った。1941年に日本人女性と結婚していた彼は、3人の子供たちをもうけた。大戦末期に罹患したマラリアと結核が徒となり、1954年12月10日、神戸でその生涯を終えた。
* * *
いかがでしょうか。
グーグルアドセンスの審査が通ったら、和文英訳の記事も書こうと考えていたのですが、無報酬のまま手間の掛かる作業をするのに二の足を踏んでしまい、果たせずにいました。
今回は特に興味深い番組だったのと、比較的短い文章だったため、一つの試みとしてやってみました。
次回は、番組を観てtweetを連投したので、それをまとめてみようかと思います。
米放送局PBSが制作したドキュメンタリー『Asian Americans』の第2回では、日系2世のバディ・ウノさん(1913-54)に焦点を当てています。
— 小宮貫太郎 (@KantaroKomiyaJP) May 16, 2020
LAで生まれ育ち、開戦前夜の反日感情から日本に渡り特派員を目指すも、陸軍宣伝員・宇野一麿として「裏切り者」となった壮絶な人生を送る。https://t.co/Oy90zhZuRG pic.twitter.com/qUGtJia98u
【2022.5.20追記】
なんとバディー・ウノのひ孫さんから連絡があり、6月上旬に取材させて頂くことになりました!
生前のバディー本人を知っているお孫さんも健在とのこと。
お会いするのが楽しみです。
なおこの番組、アメリカのアマゾンプライムでの配信が始まっています。
日本からは見られないので輸入盤DVDを購入しました。