ども。檀原(@yanvalou)です。
ライターとして日々頑張っているなかで「ずっとこのままで良いんだろうか?」と漠然とした不安を覚えることは、割とある話だと思います。
一般にライターからの転身(ステップアップ)として考えられるのは、以下のような道筋ではないでしょうか?
- 編集者
- メディア運営者(経営者として起業)
- 経験を認められ、企業に中途採用される
- 作家(小説家)
このうち「作家」は、憧れのコースと言えるでしょう。
「タイムラインの王子様」ことカツセマサヒコさんが、今年『明け方の若者たち』で小説家デビューしたことは、まだ記憶に新しいところです。
「小説家になろう」の例を挙げるまでもなく、ものを書くのが好きな人間の間ではずっとゴールデン・コースでした。
今に始まった話ではありません。
たとえば、ホラー小説『死国』『狗神』などのヒット作を持つ坂東眞砂子さんは、マガジンハウスで仕事をするフリーライターでした。彼女の作家デビューは1980年代。つまり昔からあった道筋で、珍しくない話な訳です。
ところでひとつ問題提起です。
ライターからアーチスト(芸術家)への転身はありですか?
- 言葉を素材にしてアート・ピースをつくる
- 少なくとも共同制作者としてなら、問題なく関われる
- 「ツアー型演劇」というライター向きの創作手法
- アートをテーマに批評やリサーチをする
- 「物語の力」の排除
- お金のことを一旦脇に置けば……ありじゃね?
言葉を素材にしてアート・ピースをつくる
ライターは言葉を扱う職業です。
つまり言葉を使う仕事であれば、転身しやすいと考えられます。
こう書くと「じゃあ、アーチストは関係ないじゃん」と言われそうです。
一般にアートというと絵画や立体、インスタレーションなどが思い浮かびます。
しかし言葉そのものを作品にしたアートもあるのです。
代表的なものは「インストラクション・アート(指図するアート)」と言われるものです。
オノ・ヨーコさんの『グレープフルーツ』という作品集は有名です。
手にとって驚くでしょう。
「え? これがアート? ふつうの本じゃん。ってか、詩集?」
そんな反応が帰ってきそうです。
それもそのはず。
作品は文字、というか文章そのものです。
割と有名な話ですが、ジョン・レノンの「イマジン」も「想像してごらん」というインストラクション・アートを曲にした作品なのです。
【オノ・ヨーコ】グレープフルーツ・ジュース◆超現実的で、禅問答にも通じる命令口調の言葉が並び、読み手の創造力の中で完成する『Grapefruit』の日本語版。ジョン・レノンはこの作品に触発され、名曲「イマジン」を生んだ。https://t.co/kmzVxvaazm
— グレープフルーツ - オノ・ヨーコ (@_YokoOnoLennon_) September 15, 2017
想像しなさい。
— グレープフルーツ - オノ・ヨーコ (@_YokoOnoLennon_) August 26, 2020
あなたの身体がうすいティシューのようになって急速に世界中に広がっていくところを。
想像しなさい。
そのティシューからちぎりとった一片を。
同じサイズのゴムを切りなさい。
そしてそれを、あなたのベッドの横の壁につるしなさい。
笑いつづけなさい、一週間。
— グレープフルーツ - オノ・ヨーコ (@_YokoOnoLennon_) August 26, 2020
空にドリルで穴をひとつあけなさい。
— グレープフルーツ - オノ・ヨーコ (@_YokoOnoLennon_) August 26, 2020
穴と同じ大きさに紙を切りなさい。
その紙を燃やしなさい。
空はピュアなブルーでなければならない。
この手の言葉だけで構成された作品、じつは結構ポピュラーです。
僕が住む横浜では「象の鼻テラス」のガラスに谷川俊太郎さんの「象の鼻での24の質問」が、「クイーンズスクエア」の吹き抜けにはジョセフ・コスースの「The Boundaries of the Limitless」が常設展示されています。
《〈象の鼻〉での24の質問 》 / 谷川俊太郎 (2009)
— 象の鼻テラス / 公式 (@ZOUNOHANA_TRC) May 4, 2020
象の鼻テラスの海辺の大きな窓にある、谷川俊太郎の詩作品。
象の鼻テラスの運営を担っているスパイラルが4/1にスタートさせたWebマガジン「SPINNER」で、谷川俊太郎さんと初代編集長の前田エマさんの特別対談が掲載中です!https://t.co/dXqCBnUcJJ pic.twitter.com/PxJxEzXXfm
"The Boundaries of the Limitless" by Joseph Kosuth at Queen's Park in Minato Mirai 21 Public Art Project #Yokohama pic.twitter.com/6dSinGUTmU
— zaki48 (@zaki48) August 16, 2014
よりライター・フレンドリーな方法として、町の人たちをインタビューして言葉を載せた吹き出しを制作し街角に貼っていく、という作品もあります。
八戸在住のアーチスト、山本耕一郎さんの手法です。
まちに新たな絆と創造をするアートプロジェクト。#八戸のうわさ #山本耕一郎 pic.twitter.com/XBiU3DWvII
— 山下洋輔(柏市議会議員/柏まちなかカレッジ)@教育のまち (@yosukeyama) November 15, 2016
取材した町の人の数が増えるほど、見応えが増していきます。
取材や執筆のみならず、広報・宣伝、さらにはイベント運営やまちおこしなど、さまざまな分野で言葉を駆使するライター業。
言葉の力を知っているのは、アーチストだけでしょうか?
この方法を最初に思い付いた山本さんは偉大ですが……私たちにもなにか出来そうですよね?
少なくとも共同制作者としてなら、問題なく関われる
2000年代に入ってから、演劇やアートの世界で「ポストドラマ演劇」という言葉が頻出するようになりました。
戯曲をベースに役者を演出して物語空間をつくるのが従来の演劇。
ポストドラマ演劇は、前衛的な形態の一つで文字通り「ドラマに頼らない」演劇です。
日本でとくになじみ深いのは「ツアー型演劇」といわれる形態。
街に出て歴史的な出来事の跡地を訪ね、現地で撮り下ろしのオーディオブックを聴いたり、指示された地点に出向いてなにかに出会う、指令を受ける、など若干ミッション遂行的な要素も混在します。
実際の都市の中を移動しますから偶然性が入り込み、さらに個々人の感性の違いなども相俟って、参加者はそれぞれ微妙に異なった独自の体験をすることになります。
ポストドラマ演劇は、僕たちライターにとって参入障壁が低いはず。
むしろアーチストに不法侵入されている分野だと言うことさえ言えそうです。
実際僕自身、ポストドラマ演劇作品を創ったことがあります。
これは横浜の黄金町で頼母子講をめぐって起きた殺人事件を題材にした作品です。
犯人も被害者も、この地で働いていたタイ人の娼婦でした。
彼女たちが働いていた街の路地裏に立ち、数分で聞き終わるドラマを iPod(当時)で聴く、というものです。
実際は5本程度の作品をつくり、町歩きしながら2、3時間で完結するように組み立てました(途中、お寺の境内や路上で短いダンス鑑賞などが差し挟まれます)。
「やればできるな」というのが、実際につくってみての感想です。
またイギリスから来たアートユニットの「現地共同制作アーチスト」という立場で、一緒に作品を創ったこともありました。
期間は1週間程度と短かったのですが、ライター活動とはちがった充実感がありましたよ。
ライターであっても、アーチストと共同作業することは十分可能です。
経験を踏まえて語っていますから、間違いありません。
「ツアー型演劇」というライター向きの創作手法
ポストドラマ演劇の一種で「ツアー型演劇」とよばれる形態があります。
この分野を開拓した高山明さん(Port B)には信望者が多く、影響力を無視できない作家です。
出発点が演劇(演出家)ということもあり、一連の高山作品においては、世の中にインストールする仕組み作りに力点が置かれています。
アートとはいえ、特殊なテクニックが導入されているわけではありません。
2010年代に発表された「完全避難マニュアル」「ヘテロトピア」「マクドナルド放送大学」あたりは、リサーチとその成果物の配置が肝です。ライターが後追いするとしてもハードル自体は高くありません。
むしろ問われるのは、着眼点や切り口など「企画」の部分でしょう。
しかし批評眼のあるライターなら、乗り越えられる部分ではあります。
この頃の高山作品の「劣化コピー」(とあえて言う)と考えられるのが、藤原力さんの「演劇クエスト」です。
彼は出版社勤めの編集者だったという経歴の持ち主で、ライターにとって「高くない山」だと言えそうです。
「演劇クエスト」もツアー型演劇です。町の歴史を断片的なミニストーリーに落とし込み、脈絡のない形でパッケージングした『冒険の書』。参加者はこの本を手に、ロールプレイングゲームを解く要領で町歩きを敢行します。
……どうですか?
ある程度取材経験を積んだライターなら、つくれますよね。
なぜこの手のジャンルをアーチストに独占させておくのか、理由がよく分かりません。
アートをテーマに批評やリサーチをする
今世紀に入り、現代アートの世界では史実を取り扱う重要性が増してきました。
おそらく全世界規模で「アートフェスティバル」が催される傾向が高まり、アーチストが滞在制作しながらご当地作品をつくるようになったことが、その理由の一つだと思います。
以前ご紹介した長崎の原爆爆心地を取り上げた小田原のどかさんのリサーチも、彼女のアートプロジェクトの一部です。
小田原さんは芸大大学院出身の批評も行う人で、出版社の代表でもあります。つまりアートの世界から我々の世界へ結果的に近づいている例ですが、逆に僕たちの側から彼女と同じ地点へ向かうことも、決して出来ないことではないはずです。
美大を出ていなくてもなんとかなります。
建築や音楽など、畑違いのジャンル出身者は結構います。
絵が描けなくても大丈夫。
現代アートの世界では、マテリアルの制作が必要な場合、外注に出すことが認められています。
ですからデッサンが出来なくても、彫刻を彫ったことがなくても、コンセプトの立案とやり抜く力さえあれば、なんとかなってしまうように思えます。
「物語の力」の排除
素材として言葉を扱う上で注意しなければいけない点もあります。
アートの世界における言葉の取扱いで特徴的と言えるのは、(すくなくとも僕の理解では)「物語の力」の排除にあると言えるでしょう。
通常、私たちは
逆境→成功→カタルシス
のような物語に興奮し、感動を覚えます。
しかしそれは小説や映画における話であって、アートワールドでは「言葉の力そのもの」に力点を置いているように見受けられます。
いわゆるアートにおける言葉は(狭義の)テキスト・コンテンツではないようなのです。
どういうことか、一例を挙げましょう。
「禅問答」ってありますよね?
禅問答は純粋に言葉だけで成り立っていますが、文学ではありません。
言葉を起点にした思索の方法論、修行の設計だと思うのです。
このような言葉を出発点として真理について思索を深めるのが禅問答の仕組みと言えます。
この仕組みをつくることそのものがアートです。
これは文学とは異なる体系です。
お金のことを一旦脇に置けば……ありじゃね?
大野左紀子さんの『アーチスト症候群』という本があります。
「なぜ人はアーティストを目指すのか」「アーティストになりたい病の本質はなにか」を追求した本です。
その結論に関しては実際に同書を読んで頂くとして、
「ライター業で金は充分稼げるようになった。今後は金銭とは別の尺度でワンランク上を目指したい。
しかしライターには賞があるわけでもなし。
どうしたら人とは違う形でブランディングできるだろう?」
と考える人には、出口の一つとしてアートがあると思います。
結局ライターがアート方面に足を踏み入れないのは、利潤を得る仕組みが謎だからでしょう。
お金も掛かりそうだし、どこから手を付けたら良いのか分かりません。
どうやったら評価されるのか、一般には知られていませんしね。
しかし漫画家・小説家・アーチストの小林エリカさんのように、アートと商業出版を股にかける作家も珍しくありません。
彼女の書いた『親愛なるキティーたちへ』は、2010年代のノンフィクション文芸を語る上で、欠くことの出来ない傑作だと思います。
であれば、僕たちが向こう側に越境しても構いませんよね?
実際僕自身、ライター活動の傍ら、アートの世界にも足先くらいは突っ込んできまして、前述のものとは別に、いくつかワークショップ形式のプロジェクトに参加しました。
自分で立ち上げたプロジェクトもあります。
まぁブランディングになっていないし、完全にスルーされていますけどね(爆
今日の記事は以上です。
またのお越しを、お待ちしております!
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