メケメケ

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町工場や倉庫がひしめく運河のほとりから、セカイに向けて書き綴るブログ。

セーラー服が日本に定着した理由に肚落ち

「セーラー服」とか「女子高生」と言うと、元気で明るくて浮ついたイメージが思い浮かびます。
女子高生(「JK」なる言葉は敢えて使いません)を肯定的に捉える人は大衆的で親近感が持てる人、否定的に捉える人はひねた人でしょう。
自分は後者でした。

清純な乙女というのには興味がないし、そういうものが好きなのは格好悪いことだと思っていたのです。
どちらかというと不良少女とか、90年代の出始めの頃のコギャルとかの方が好きです。
こういう僕は、きっと損をしていたのでしょう。
自分の可能性やら好奇心やらに、重いフタをしているのかもしれません。

先日、そんなことを気づかされた展覧会に行って来ました。

東京・文京区の弥生美術館で開催中の「セーラー服と女学生 ―イラストと服飾資料で解き明かす、その秘密―」です。

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弥生美術館は東大本郷キャンパス(赤門や三四郎池があるところ)のすぐ裏手にある、ちょっと古めかしくもモダンな空間です。
昭和モダンを代表する画家、竹久夢二高畠華宵のふたりを常設展示しています。
竹久夢二は現在も有名ですが、肉筆画がいつでもみられるのはここくらいではないでしょうか?

 

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さて「セーラー服と女学生」展です。
セーラムーン誕生25周年】という企画が絡んでいたらしいのですが、セーラームーンの扱いはそれほど大きくありません。
むしろポスターにもなっている中村佑介の方が大きく取り上げられていたと思います。

この展覧会のコンセプトは

本来、ユニセックスなファッションのセーラー服が日本で女学生服として定着し、100年もの間、愛される秘密と魅力に迫る

でした。

19世紀中頃にイギリスで誕生した海軍の制服が、なぜ、日本においては女学生服として定着し、100年もの間、愛されているのか?

この疑問をイラストレーションと服飾資料によって迫る、というのが基本路線。

服飾研究家の方に大々的に協力して頂き、日本で最初のセーラー服といわれる京都の平安女学院の制服を復元したり、同校とほぼ同時に登場した福岡女学院の夏服と冬服(当時のもの)を展示したり、とかなり本格的です。

東洋英和女学院、都立八潮高校、都立第五商業といった高校の工夫を凝らしたタイ結びの解説など、マニアックな展示もあります。
正直な話、女子高生のタイ(というかスカーフ)の結び方なんて、一度も気にしたことがありませんでした。学校によってちがうんですね。

その他、文字通りお嬢さん学校だった戦前の女子高生ライフを、当時の雑誌などから探るということもしています。

7、8年くらい前だったでしょうか。戦前の乙女雑誌『令女界』の愛読者だった、というお婆さんを取材したことがあるのですが、そのときのことを思い出しました。
当時は雑誌主催のオフ会というものがあり、人気作家といっしょに若い女の子たちが20人くらいいっしょに集まってお喋りに花を咲かせていたということなのですが、意外とやることは変わっていないというか。

勿論ちがう部分もあり、最も驚いたのが、セーラー服を導入してまだ歴史が浅かった頃の女学校には「百合」的な文化があり、卒業するとき先輩が後輩に手縫いのセーラー服を送るという風習があったのだとか。


弥生美術館「セーラー服と女学生」1階

初期のセーラー服はワンピースで、スカートのギャザーの部分以外は和裁の技術で縫製出来たのだそうです。
この「和裁でつくれる」というのが、まだ洋服の普及率が低かった当時の日本でセーラー服が受け入れられた理由の一つだそうです。

セーラー服が日本で定着した理由がもうひとつあります。
これは日本女性にとって不名誉なことかも知れないのですが……もともとセーラー服は軍服だったのですが、欧州ではなぜか子供服として人気が高かったのだそうです。
日本に入ってきたときも、政府のお抱え外国人の子供や宣教師の子供たちが普段着として着ていました。
戦前の女性はみんな和服を着ていたというイメージがあります。
しかし実際には、明治時代から若い女性たちの間には洋服に対する憧れがありました。
ただし世間体や価格の高さ(洋服は本当に高価だったようです)が災いして、普及しなかったのです。

女学校が洋風の制服を導入すると決めたとき、いくつかのアイデアがありました。
そのとき一番支持されたのがセーラー服だったのだそうです。

その理由は

  1. 身体の線が出ない
  2. 活動的に見える

というものでした。

1番目の理由と関係するのですが、セーラー服はすとんとした直線的なシルエットです。
女性の曲線美を隠すスタイルです。
だからこそ子供服だったのですが、戦前の日本女性は幼児体型でしたから、逆にこれが似合ったのです。
さらに戦前のセーラー服はスカートの裾が長く、ワンピースでベルトを締めるタイプでした。
洋服でありながら身体の線を気にせずに済み、露出が少ない。
したがって和服から移行しやすかったにちがいありません。

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つまりこういう現在のセーラー服とは別物なのですね。

セクシーダイナマイトな女の子にはセーラー服は似合いません。

白人や黒人は発育がよく、高校生ともなれば「ボンキュッボン」のメリハリ体系ですから、セーラー服は似合わないのです。
つまり日本人のマイナス面をプラスに変えてしまう効果があったという訳。
セーラー服は日本人の女の子のかわいらしさを引き出す服だったんですね。
だからこそ愛されつづけているようです。

現在のセーラー服はスカートの丈が短くてまぶしいくらいですが、これはセクシーアピール出来る場所が丈の長さしかないことの裏返しなのでしょう。

ちなみに早い時期にセーラー服を取り入れた女学校の多くはミッションスクールで、学校のブランドイメージを高める戦略として洋風の制服を導入したとのこと。
「あの制服がかわいいから、あの学校に行きたい」という女心は、明治の頃から変わっていないのですね。

いろいろ勉強になる展覧会でした。

6月24日(日)まで開催されているので、ご興味がある方はどうぞ。
帰りは戦前のモダン文化を忍んで朝倉町彫塑館とか旧岩崎邸庭園あたりに行くのがお薦めです。

今回の記事は以上です。
またのお越しをお待ちしております。