ども。檀原(@yanvalou)です。
今回は「である調」でお届けします。
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「東大在学中にAV女優デビューし、その後日経新聞に入社して記者に。過去が明るみに出てからは作家に転身して大ブレイク」という経歴を持つ鈴木涼美さんが、こんな発言をしていたのを目にした。
よく、私の文章は「特徴的だ」とか「個性的だ」と言われることがあるのですが、文章を書くときに心がけているのが、「文体」から決めることです。ー生に一度出会える一文になれるかどうかって、内容よりも「言い方」だと思うんですよね。文体が文よりもモノを言うと思う。(鈴木涼美)
https://careerhack.en-japan.com/report/detail/1023
文体から決めて書いていくと、表現の幅が広がるだけでなく、内容自体も変わってくるように思います。文体から内容が出てくることもあります。(鈴木涼美)
https://careerhack.en-japan.com/report/detail/1023
当代随一の個性的な文体と言えば、小説家の町田康。これは衆目の一致するところだろう。
しかし僕が知る限り、もっとも個性的でもっとも格好いい日本語の使い手は、堤玲子をおいて他にない。
一匹の獣、風呂をたきながらペロペロと傷口をなめた。娼婦一匹、オノレの傷をオノレでなめて生きていかなければならなかった。(中略)娼婦一代血泡の人生。鳥子の中に神がいるとしたら、どうせくりからもんもんの、博打うちの女郎買い好き、大酒くらいのやくざもんの神であろう。まともな神はまぶしすぎた。
堤玲子・著『わが妹・娼婦鳥子』1968年
最高でしょう?
この本『わが妹・娼婦鳥子』は「私は神である」という有名な書き出だしで幕を開ける。
そんな堤玲子とはどんな人物かというと……岡山の山間の貧しい家に生まれ、中学卒業とともに働きつつ詩を書く。結婚後、1967年に三一書房から刊行した自伝小説『わが闘争』がベストセラーとなり、世に知られる身となったという人物だ。
凄惨極まりないストーリー。
講談調のテンポが醸し出すユーモア。
悲惨と楽観の相克からにじみ出る人間くささ。
そんな作品を連発した。
知る人ぞ知る無頼『堤玲子』。彼女から『どん底でも生きる術』を学んだ。スラムは情をかけると飯を奪われるという。文学はどんな泥まみれ、血まみれのアンダーグラウンドの中からでも発芽する。世界中例外なく。上品ぶったインテリだけのものでないのが、文学世界の奥ゆきの深さを表していて素敵です。 pic.twitter.com/ivL1dKnLL7
— Colette (@Colette89677107) March 10, 2017
1970年代〜80年代初頭にかけて、雑誌メディアにときどき登場していたらしいのだが、あまりに苛烈な性格のため人から遠ざけられ、地元岡山に引っ込んだまま忘れ去られてしまったと言われる。
僕が読んだのは『わが闘争』1冊だけだが、時代設定を戦後の荒廃にさだめた講談のようでとにかく強烈だった。
スケバンものと肉食女子ものを足して貧困で煮込んだら、きっとこんな世界になるのだろう。
当時、五木寛之が「堤玲子は、ご詠歌を歌うビリー・ホリデイだ」と絶賛したものです。
こういう賛辞にも、時代性が濃密にあらわれていますね。
やはり一九七〇年代に角川文庫で出ている五木寛之対談集『午前零時の男と女』Ⅱの方に、堤玲子との対談が掲載されていて、堤玲子の写真も載っているのですが、鈴木いづみを少しふっくらさせて岡本かの子の髪型にさせたような顔です。
http://www.sweetswan.com/ryufuji/26.html
彼女の魅力はなんと言ってもその文体である。
鈴木涼美が「文体が文よりもモノを言うと思う」と発言しているとおり、堤玲子はとにかく文体が格好いい。
書き写してコレクションしているので一挙に放出してみようと思う。
- 春の日のバカ殿の昼寝ほどの長い手紙、時間を頂きありがとう。
- 男を売れず、度胸も売れず、惨めさを売って生きてきた。
- 富士と月見草、長ドスとやくざ、の様によく似合った。
- ゴルゴダの丘のように雨降りしきる春婦
- 時は三月、別れは四月。季節が巡ればまた桜が咲く。
- おごる平家は久しからず、微塵となる
- 月はお高い処女の表情に戻った
- 死に曳かれて逝ってしまった。
- (ひどい音の描写の後)諸行無常の音であった
- 〜と十三階段を上らせるようなことを言って
- 神も許すまじ、この極悪非道。
- (娼婦になる=)売り方に廻った
- 安娼婦
- 涙しぐれ
- 阿寒湖の毬藻のように転がりながら
- 焼きスルメのように反り返る
- パン助だけがたらふく食ってうまそうに太っていた。
- ラジオからリンゴの歌が流れていたが、歌で腹がふくれはしない。
- 夜に咲いたパン助の尻
- 愛もなかった。惚れ手もなかった。ただ貴族を盗賊が打ち殺す喜びだけがあった。
- 汚す喜び
- 泥付き大根のような足に、三寸のハイヒールを出っ尻も高々と履き、憎き地球を踏みしめた、美津の得意や思うべし。
- エッポンポン。鼓の音に送られて、ぐるり廻った回り舞台。絢爛たる春から荒涼たる冬である。
- 廻れ廻れ運命の糸車。セ・ラ・ヴィ。これがバラ色ならぬ、お前自身の人生なのだ。
- 人生の悲哀めいたものが、春のしらみみたいに動き出す。
- 大きな船や小さな船がいっぱいいた。汽笛が、ぼうっと鳴っていた。ランチがサイダーのような水泡を立てて走っていた。青い海は果てもなくひろがり、下半分が黒く上半分が赤い、表紙のない破れ絵本に出てくる童話のような船が動いた。ひるがえるユニオンジャック。港の唄。海の匂いと、プランクトンの匂いがし、船には見知らぬ旗がひるがえり、鳥が白い腹を見せて飛んでいった。
- その後ろ姿に荒涼がとまっている。
こんな言い回し、近頃見ないでしょう?
小さいときから淫売婦があこがれであった。夜出て行って朝帰るお月様のような、ちゃらちゃらときれいなお姉様が好きであった。どうせまじめに生きてもたかあ知れたる人生。いうなれば、不とう不屈の淫売精神、青酸加里女郎であった。だるまは七転び八起きであるが、これは七へん転んで八へん目もどたんと倒れる半生記である
堤玲子・著『わが妹・娼婦鳥子』1968年
しかし「ライターズ・ライター(書き手の間でだけ評価される玄人受けライター)であった彼女に対し、世間の風は容赦なかったらしい。
ところで堤玲子さんの「わが闘争」(三一書房)をお読みになったでしょうか?大変過激な内容で、刺激的できわどい言葉が頻繁に飛び交っていた記憶があります。
当時文壇の多くの人の間で話題になり大江健三郎氏は直木賞に推薦し、田辺聖子さんは『堤玲子・美しき異端文学。後にも先にももう日本文学には現れないだろう…』云々
五木寛之氏は出版した日記の中に『マスコミは堤玲子に対して冷たかった。本当に冷たかった。織田作之助、太宰治、無頼もどきの文学にはちやほやするが、真の無頼・堤玲子に対してはほんとうに冷たかった…』と(田村 亮)
http://www.tamura-ryo.com/diary/past/030918.html
(前略)ハレンチであるとかショッキングなほどワイセツ,オゲレツな書であるとかいう俗評がいきわたっているようだが,そうした週刊誌的俗説に惑わされて,本書を手にした人は,この著者の秋霜烈日のごとき気魄と,はじきとばされそうなみごとな痰呵と,どこを切ってみても真赤な血が滴っているまぎれもない詩人の魂とに,圧倒されてしまうだろう(若林 恵津子)
『わが闘争』書評(『助産婦雑誌 』22巻10号_1968年10月掲載)
今回はひたすら堤玲子のかっこよさを紹介してみました。
いつか書いてみたかったんです……。
そろそろインタビューやレポート記事を更新しなければなりませんね。
今日の記事は以上です。
またのお越しを、お待ちしております!
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