メケメケ

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町工場や倉庫がひしめく運河のほとりから、セカイに向けて書き綴るブログ。

同年代のホームレスに身の上話をきいた結果……!(その2)

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baseball_000002 / Ren Saijo

ども。檀原(@yanvalou)です。

ビッグイシュー』販売員の身の上話、第2回です。

* * *

輝かしい思い出

底なしのギャンブル沼にハマっていくその一方で、Nさんが熱中していたものがあった。野球である。
 
きっかけは知り合いに連れて行かれた飲み屋だった。マスターが野球好きで、常連と野球チームを作っていたのだ。ここに誘われたのである。
野球好きなマスターには、Nさんより3つ年下の一人息子がいた。自閉症だった彼は周囲とコミュニケーションを取るのが苦手だったが、父親同様野球が好きだった。彼に好きな野球をやらせるためのチームだった訳だ。

じつはNさん、野球と縁のある人生を送っていた。高校時代はアルバイトに明け暮れていたが、長くやっていたのは横浜スタジアムの警備員の仕事だった。席案内だったり、入場券のもぎりだったりと仕事内容はそのときどきによって変わったが、リーダーはみんなアルバイト。そんな職場だった。

警備を担当していた株式会社シミズスポーツ(現・株式会社シミズオクト)はイベントの運営も行っていたため、スタジアムで行われるコンサートの警備や舞台設営の仕事もした。仕事に就いているときは、野球も音楽も見放題、聞き放題だった。

印象深かった思い出がある。高校を卒業してすぐの時期に、小室哲哉のライブがあった。ゲストとして出演していたのが宮沢りえだった。おそらく彼女のデビューシングル「ドリームラッシュ」を小室哲哉がプロデュースした1989年頃のことにちがいない。

ちょうどこの日は雨模様だった。宮沢りえは車でスタジアムに乗り付けたが、外構は屋根のある場所に車輌を横付け出来る構造になっていない。そこでNさんが傘を差しだして、彼女が濡れないように1つ傘の下でいっしょに歩いたのだという。つまり人気絶頂期の宮沢りえと相合い傘した訳だ。役得とはこういうことを言うのだろう。

スタジアムのバイトを振り出しに、大洋ホエールズ(当時)の2軍でも下働きの仕事を経験した。横須賀で行われた秋季キャンプで2週間ほど球拾いなどの雑用をこなしたのである。このとき球団職員と仲良くなり、2年間チームについて回ってスコアラーの補佐をやった。ネット裏からビデオを撮ったり、配球表を付けたりするのだ。野球が好きなので、最高の仕事だった。

拘束時間が長いのでプライベートで試合を見に行くことはなくなったが、チームが関東圏でプレイするときはかならず帯同した。当時2軍の試合数は年間100試合くらいだったそうだ。
あくまでもアルバイトという身分だったが、1ヶ月20万くらい稼いでいた。

こんな背景を持つNさんだったから、マスター率いる草野球チームには喜んで参加した。当時マスターは現在のNさんと同じ50歳くらい。Nさんは半分の25歳くらいだった。

チームの主体は同級生で、すこし年上の人もいた。全部で14、5人いたが気のいい仲間が多く、マスターの意向は浸透していた。息子も打ち解けて、彼なりに話すようになってくれた。
「マスターはチームつくって良かったと思っているはず。ぼくたちも彼から学んだことはある」と Nさんは語る。

しかしこのチーム、じつは経験者が集まっており、みんな上手かった。マスター自身も高校野球の経験者である。成績が伴うようになるにつれ、段々「勝てるチームにしよう」という気運が高まっていった。Nさんのポジションははじめのうちこそキャッチャーだったが、上手い後輩を連れてきて自分は外野に廻った。

チームは横浜野球連盟の旭区支部に所属していた。1部と2部があり、1年間に2度大会が行われる。当時は1部と2部を併せて120以上のチームがひしめいていた。なかなかの激戦区だ。
チームは1年目の秋の大会で好成績を上げ、ベストフォーに進出。翌年1部に昇格した。Nさんがプレイしていた8年間の間に区の大会で優勝1回、準優勝1回。旭区の代表として市の大会にも出場した。

草野球時代最大の思い出は、高島屋軟式野球部と接戦を繰り広げたことだという。1998年の神奈川国体にあわせて、全面改装を施した保土ヶ谷球場。改装し立てでピカピカしていたこの球場で、企業チーム相手に「飲み屋のチーム」が善戦したというのだ。痛快である。

Nさんのチームはピッチャーがよかった。甲子園には行けず神奈川大会の4回戦止まりの選手だったというが、好投した。Nさんも2打席目でヒットを打った。ランナーはいなかったが、調子は上向きだ。

次の打席のときである。ワンナウト満塁。スコアは3対1で2点ビハインド。この試合のビッグチャンスだった。

Nさんは前の打席で調子が良かったため、気持ちが浮わついていた。チームはランナーが出るとバントで送るような細かい野球を信条としていたが、普段はやらない初球打ちをしてしまった。結果はショートフライ。
「昔からチャンスで打てないんですよ」と Nさん。結果は4対2で敗退だった。

結果こそ出せなかったものの、8年やったなかで一番楽しく、達成感を感じた試合だった。企業チーム相手に勝てるとは思っていなかった。しかし、いざ蓋を開けてみると中盤まで競っていた。だから充分な手応えを感じた。
「もし勝っていたら、次が大変だったよね」というのは Nさんの弁だが、確かにそうだろう。試合は平日の昼間である。企業の部活とは異なり、休みを調整して出れる人間だけが参加する同好会なのだ。前提条件がちがう。

Nさん自身は当時運送会社で薬の納品をしていたが、試合に出る時間をおいそれとつくれた訳ではない。同僚に何軒か余計に廻ってもらい、時間をやりくりしていたのだという。
試合は1時間半をこえると打ち切りになるルールだった。だから正味2時間、余裕をみて3時間あれば大丈夫。仕事を抜け出して、まさに綱渡りである。そんな状態で企業チームと戦ったのだった。

(つづく) 

*2019.5.5 タイトルを変更しました