メケメケ

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町工場や倉庫がひしめく運河のほとりから、セカイに向けて書き綴るブログ。

今さら北条裕子『美しい顔』問題について書いてみた

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ども。檀原(@yanvalou)です。

久しぶりの更新となりました。
今回は「である調」でお届けします。

 *

第159回芥川賞の候補作となった北条裕子さんの『美しい顔』の「剽窃」問題。
はてなで突っ込んだ見解を書いている方がいたので、自分も書きはじめた。

hibi.hatenadiary.jp


ところが内容が膨らんでしまい、収拾がつかなくなった。しばらく放置しているうちにすっかりご無沙汰になってしまった。
以下、乱暴にまとめてみたので公開してみたい。

日比嘉高さんによる上記エントリーはハフポストに転載されたため、かなり読まれているはずだ。
日比さんの意見には概ね賛成である。
ただこの問題を最初に目にしたとき、僕が考えたのは以下のようなことだった。

1.映像ならばオマージュ

しばしば出版業界は体質が古い業界だと言われる。
人類の歴史のなかで最古参に属する職業と言えば、狩人、娼婦、占い師、大工、鍛冶屋といったものが連想される。出版業界は印刷による大量複製が出現してから生まれた仕事だから、非常に新しいはずだ。職業として確立したのは近世以降だろう。にもかかわらず、紀元前からつづいている建設業界よりも現代化が遅れている。今回もそうした「遅れ」が表面化したのだろう。

『美しい顔』は主人公であるサナエの心理描写で構成されている。無断盗用したという石井光太さんの『遺体: 震災、津波の果てに (新潮文庫)』(新潮社 2011年)や金菱清さんらが編集した『3.11 慟哭の記録―71人が体感した大津波・原発・巨大地震』(新曜社 2012年)は文字通り参考資料に過ぎない。
 石井さんの作品に書かれているセンテンスがまるっとそのまま転載されている箇所があるそうだが、実際にあるとしても物語の骨子とは関係のないレベルだろう。
僕は石井さんのファンで、とくに『神の捨てた裸体』が好きだ。トークイベントにも何度か足を運んでいる。しかし率直に言って、声高に抗議する石井さんには失望した。
 抗議するなとは言わない。自分も石井さんの立場だったら抗議するだろう。しかしなにかがおかしいと思う。

「神は細部に宿る」というが、北条さんが石井さんらの作品を参照したのは、ディティールにこだわらない限り作品の精度が上がらないからだ。
しかし同時に、それはあくまでティティールに過ぎず、作品の本質とは関係がない。
『美しい顔』が優れた作品であることは否定できないだろう。

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2.取材すれば書けるのか

北条さんを非難する者たちは一様に『現地へ行って取材しろ』という。
しかし取材すれば、参考文献を使わずに書けたのだろうか?

311をテーマにした小説はいくつかあるようだが、避難所を舞台にしたものはかなり少ないのではないか。
当事者でない書き手が、避難所暮らしを書くことはかなり勇気がいることだ。
体験取材のような形で避難所暮らしをすることは出来ないので、あくまで通いながら、ときにはボランティアなどもしながら取材を進めることになるだろう。
たいていの書き手は、取材したら小説ではなくルポルタージュの形で成果をまとめると思う。
北条さんは取材しなかったからこそ小説というジャンルを選択したのではないだろうか。

震災関係の文学で取材の成果をそのまま生かした作品は確かにある。
僕が実際に読んだ範囲内では、福島県浪江町の「希望の牧場・ふくしま」を舞台にした木村友祐さんの『聖地Cs』(新潮社)がこれに該当する。
被災地に置き去りにされた被爆牛の問題は、それはそれで忘れてはならない問題だ。
しかしルポルタージュではなく、敢えて小説にした必然性は薄いように感じる。

逆に被災直後からはじまる避難所の様子を、当事者の心情で書くにはルポルタージュよりも小説の方がベターな選択だったと感じる。
そして逆説的なようだが、小説にするためには、取材したら書けない種類の出来事だった気がする。

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3.震災半年後に被災地を見て感じたこと

ここで僕自身の個人的な体験を書く。
311の発生当時、僕の周辺でも被災地に乗り込んで取材したライターやカメラマンが何人もいた。金がなく、借金して駆けつけた者もいる。現地に入りした者の話によると、被災地は出版業界の知り合いだらけだったそうだ。

しかし僕は行かなかった。
理由はふたつある。
ひとつは2009年から2011年の2年間は、めちゃめちゃ貧乏な時期だったため、現地に行く余裕がなかったこと。もうひとつはメディア関係者が殺到して生き馬の目を抜く状況のなか、取材の成果が掲載される可能性は低いと踏んだからだ。

現地入りしたカメラマンのなかには、個人でヘリコプターをチャーターした猛者もいたと聞く。南三陸沖の海底に潜って車や家具などが一面に散乱している様子を撮影したカメラマンもいた。
ライターのなかには何年も東北通いして、復興の様子を粘り強く記録しつづけた者もいた。
そんな連中とまともに勝負して敵うとは思えない。
なにしろ、当時の僕には現地へ行く金さえなかったのだ。非常時に災害の現場に行ったら、どれほどの予算が掛かるか見当がつかない。1泊2日でボランティアに行くのとは訳がちがう。
そこで被災地へ行くのは諦めた。
しかし合理的かつ理性的に判断できた訳ではない。
ものすごい無力感と屈辱感に襲われたことは告白しておきたい。

その埋め合わせという訳ではないが、9月に入って僕はようやく現地入りした。
訪問先は石巻気仙沼である。
ネタ探しではない。
形だけでも現地に行かなければ、自分と折り合いがつかなかったからだ。

じつは311の前年に仕事で気仙沼に3週間、南三陸に1週間滞在していたので、そのふたつの地域に限って言えば、被災前の様子はよく知っていた。
被災後の様子をみたら胸が痛むだろうと思っていた。

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半年経った被災地は瓦礫の除去も進み、かさ上げした道路も開通し、最低限のインフラは復旧していた。
とは言え海から数百メートル圏内は、津波の忘れものである巨大な水たまりが、あちらこちらで口を開けていた。その周囲に近づくと、強烈な異臭がする。覚えのある臭いだった。

僕の実家のそばには釣り堀があった。遠方から来るお客さんが多いため駐車場は広い。その片隅にはコンクリート造りの井戸のようなものがしつらえられていた。ときおりそこから鼻を突く強烈な魚の腐臭が漂うことがあった。被災地でかいだのは同じ臭いだった。この腐臭に加え、ヘドロの臭いも鼻腔を刺激する。俗に言う「津波の臭い」だ。一度嗅いだら忘れられない臭いが充満していた。電線には黒々と輝くカラスの群れが、黄泉の国からの使者のように地上を睥睨している。つまり津波の爪痕は半年経っても生々しく残っていた。

にもかかわらず、僕はまるでショックを受けることが出来なかった。
若い頃、アルバイトでビルの解体現場をさんざん見てきたせいだろうか。ほんとうに申し訳ないが、被災地が標準的な解体現場にしか見えなかったのである。
自分の反応に自分自身が驚いた。

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もしこれが被災直後の3月もしくは4月であれば、もっとちがう感覚を持てたのかも知れない。もし死体を見たり、被災者がスーパーやコンビニの在庫を収奪したり、空き家から家財を盗み出したりする現場を目撃したら、なにかしら感じるものがあったのかもしれない。しかし災害発生から半年経って現地へ行った率直な感想は、「大きな解体現場に来た」というものでしかなかった。

被災前の気仙沼と被災後の気仙沼を比べながら歩いてみた。
気仙沼で大きな被害に遭ったのは、主に倉庫や工場のある地域だ。つまり一般人が立ち入らない地域である。駅周辺は無傷だった(*被災した住宅地もある。通称「ヤマト」と呼ばれた大きな漁船が打ち上げられた辺りだ)

見慣れた観光桟橋が沈んでいるのには痛ましさを覚えたが、被災前に自分が見知っていた地域の大半が無傷だったということもあり、むしろ僕は拍子抜けしていた。
海辺の一等地に観光客目当ての「シャークミュージアム」があった。その裏手に気仙沼で唯一シアトル系コーヒーが楽しめる「アンカーカフェ」という店があった。ここはひじょうに居心地が良く、なんども利用したものだ。

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海のそばということもあって、どうなっているか見に行った。
この店は海からいくらも離れていないにも関わらず、その場にしっかり留まっていた。しかし2階の床ががたがたに波打っており、このまま再利用できないことは誰の目にも明らかだった。
備え付けの家具や什器は横倒しになってホコリまみれ。店で撮ったと思しきパーティーの写真が散乱しているのが、もの悲しかった。

三陸へは足がなく、見に行くことが出来なかった。鉄道が線路ごとなくなってしまったからだ。
バスがないこともなかったが、1日1、2本しかなく、朝行ったら夕方まで戻ることができないということなので諦めた。
その代わり YouTubeで被災後の様子を見た。街そのものが完全な廃墟となったようで、瓦礫やむき出しになった鉄骨、ぽっかりと出現した空き地といったものがどこまでもつづいていた。
見覚えのある風景が変わり果てた姿になっていた。
しかし見知った建築物が解体され廃墟になっていく過程を見慣れていたせいか、どうしても感傷的な気分になれなかった。
僕は悪い人間なのだろうか。

ついでと言っては語弊があるが、避難所にも行った。
好奇心丸出しのよそ者が行く場所ではないので位置を確認しただけだ。そこにあるのは単なるプレハブだった。コミュニティーのなかに踏み込まない限り、なにも目にすることは出来ない。もし敷地の中に足を踏み入れても劇的な物はなにもなかっただろう。そういうものは時間をかけないと気づけない段階に入っていたのだから。

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こんな風に半年経ってからではあるが、現地を見ることは見た。
しかし被災者の心情に寄り添うなことは、かなりの労力や時間の犠牲を払わない限り無理だ。
それは何度も通ったり、長期間現地に留まりつづけない限りむずかしい。
その上逆説的になるが、現地にいればいるほど、小説にしづらくなるのではないかと思う。

いろいろ書いたが、北条さんの作品の是非については、実際に読んだ上で判断するのが賢明な態度だと思う。
僕はすばらしい作品だと感じだ。
(*剽窃騒ぎの後、しばらく講談社のサイト上で全文無償で公開されていたが、この原稿を書き上げた8月1日時点では既に公開は終了している。ご存じの通り、この作品は芥川賞の候補にもなったが、騒動の結果が災いしたのか受賞には至らなかった)

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気仙沼に打ち上げられた巨大な漁船。「ヤマト」と呼ばれ、撤去されるまで人気スポットだった。

今日の記事は以上です。
またのお越しを、お待ちしております!