メケメケ

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町工場や倉庫がひしめく運河のほとりから、セカイに向けて書き綴るブログ。

書き下ろしの作業が延々続いています

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11月からやっている書き下ろしの単行本の作業が延々続いています。
一応1月14日に初稿は書き終えていました。
それから懸念材料となっている後半の推敲に五日かけ、18日に本編の提出を完了。
ややあって2月1日に担当編集さんと打ち合わせしてきました。
これから再校(二稿)に入ります。

初稿が終わったときに更新が途絶えていたブログを書こうと思ったのですが、大きな原稿を書いた後だったため、改めて面倒な者を書く気になれず、しばらく溜まっている本を読んだり、部屋の整理をしたり、ちょっとした仕事をこなしたりしていました。

まだ途中ではありますが、初稿を書いているとき、いくつか初めての経験をしました。
まず「声を探す」というテクニックを初めて理解出来たこと。

これはなにかというと、英語圏の小説家が作品を書く場合、しばしば「作品の声を探す」という言い方をします
日本語圏で言う「キャラが動く」とか「この登場人物らしい展開を考える」という概念に近いのですが、英語圏の作家たちは作品が白紙の段階から「声」を探します。そこが日本とちがう部分です。

いままではこの感覚が分からず、宗教かスターウォーズのフォースのような、半ばオカルト的なもののように感じていたのですが、今回はじめて作品の声を探すということが、感覚的に理解出来ました
小説家ならともかく、この声探しはライターには不要なスキルです。
つかう機会はまずないでしょう。
ですから宝の持ち腐れなのですが、数年前からの懸案事項が一つ解消され、喉の奥の小骨のつかえが取れた気分です。

僕がこの感覚を理解出来たのは、たまたま今回の本が既刊書のセルフリメイクで、あれこれ切り口を考えながら掘り下げることが出来たからです。当初は「単行本の文庫化」というプロジェクトだったのですが、結局全面書き直しになり、取材も執筆も終わった題材について改めてちがう角度から考えることが出来たからこそ「声」を探る余裕が出来たのだと思います。

昔は「プロとアマのちがいとは何か」とか「ライターと作家のちがいとは何か」ということを良く考えました。
久しく考える機会がなかったのですが、今回の経験を通じて新たな基準が立ち上がりました。

  • 作家とは作品の声を探す(スキルのある)人。
  • ライターとはクライアントや取材対象者の声を探る人。

ある彫刻家が、「自分は作品を掘っているのではなく、素材のなかに埋もれている作品を掘り起こしているのだ」と言ったそうです。
声を聞く作業というのは、これに似ているかもしれません。

別の初めては、「完成させるのが怖ろしくて筆が鈍る」という経験をしたこと。
フランケンシュタインが完成目前の博士の気分というか。
自分で書いておいてこう言うのもなんですが、読者の予想のはるか斜め上を飛び去って行くような、面白い内容のものが書けたのです。
「自分なんかがこんなに良いものを発表してしまって良いのだろうか」という、戸惑い。
書くこと自体は苦しいのですが、非常に良い感じで書けており「もうしばらくこの生活が続くと良いのにな」と感じたのでした。

とは言え、これは自分にとっての大事件でしかなく、世間様が1ミリも動かないほんとうにどうでも良い些末な出来事であることも自覚しています。
「これだけのことをしたのに世界は少しも変わらない。自分はなんてちっぽけなんだろう」と大きな仕事をした直後に感じるという、仏教で言う無常観のようなものを感じた執筆体験でした。

note で古賀史健さん

ぼくは、初稿を上げてからの加筆修正がやたらと多い。それはもう朱入れというより書きなおしに近いレベルで、ガシガシ改稿していく。そして多くの場合、というか必ず、そこでの改稿はもともとの原稿を何倍もスケールアップさせていく。

と書いています。

note.mu

僕もこれから大々的に原稿を手直しします。
ただ僕の場合は素材の配置を換えて意味合いやニュアンスを変えたり、分かりやすくすることを主眼に置いているため、古賀さんとは少し違うかも知れません。
ただ配置換えするのと同時に、加筆しながらより理解しやすくするという部分はすこし似ているかも。
初稿を書いた後、しばらく寝かせると発見がありますからね。