メケメケ

メケメケ

町工場や倉庫がひしめく運河のほとりから、セカイに向けて書き綴るブログ。

生声:反骨精神旺盛な技術者集団の話

f:id:yanvalou:20170702004407j:plain

個人的に興味を惹かれた方に会い、お話を伺うブログ内企画です。
原則として、檀原(@yanvalou)の地元を中心に考えていきます。
出だしの数回はブログにポートフォリオ的な機能を持たせるために、古いインタビュー記事から転載したいと思います。

第1回は日本で唯一モペットを生産しているフキプランニング代表取締役の畔柳富士夫さんです。

※インタビューは2012年5月9日に行われました。当時ボランティアで某Web媒体に寄稿した記事をそのまま転載(一部修正あり)しますので、文体が「である体」になります。

フキプランニング代表取締役 畔柳富士夫さん

保土ヶ谷バイパスを上川井インターで下りる。間延びした国道16号線。海軍道路。卸売問屋街やガレージ、倉庫といった無表情な建築と、のどかな田園風景がモザイク状に拡がる瀬谷区の郊外風景。取材先はその一角だった。

大阪の町工場が民間で人工衛星を打ちあげた話はよく知られている。個性豊かな技術集団である町工場の面目躍如だが、「運河とミナトの町」にもトップレベルの製作所がある。それが今回取り上げる「フキプランニング」だ。

代表取締役の畔柳(くろやなぎ)富士夫さんに話を伺った。

日本の商品開発に対する疑問を形にした

f:id:yanvalou:20170702011839j:plain
FK310-LA II Sport。FK シリーズ発売15周年記念モデル

フキプランニングの看板商品であるモペット。開発の動機は日本の商品サイクルへの疑問だった。

「現在はバイクの値段がずいぶん高くなりました。バイク屋へ行くと15〜20万する」。その原因は、メーカーが若者に絞って商品開発するからだという。

「過激なパワーや装備、派手なデザインのバイクばかり。おかしくなった。
しかし、お買い物バイクや原付バイクを本当に必要としているのは、そういう人たちばかりじゃない。ほとんどの人はそこまで性能や装備を要求していないじゃないですか。ほんとにターゲットになる人たちが欲していないような装備までくっつけて、値段を高くして売る商売。そういうのがすごく目に付くようになってきた。
バイクだけではなくて、携帯などにもたくさん機能が入って、ほとんどの人は使い切れていない。
それで『バイクが売れない』とか、ちょっとそれはおかしいでしょう」

フキプランニングの FK310シリーズはそんな日本の現状に対するアンチテーゼなのだ。

「FK310シリーズは最小限の機能だけしか付いていません。あとはユーザーがライフスタイルに合わせて自分で追加すればいい。わざとデザインしないで、『これ以上簡素化は無理。これ以上は危ないよ』という形で開発しました。だから商品の原点となるような『ほんとに走るだけ』です」。

機能を絞ったため、初代のモデルは税抜き6万9800円で発売した。ちょうど電動アシスト自転車(14〜15万円)が売り出された頃だった。「その半分の値段なら衝撃があるんじゃないか」と思って価格設定したという。

フレームとエンジンは自社製だが、価格を下げるためタイヤ、ブレーキ、ブレーキホースなどは自転車の部品をそのまま流用しているそうだ。

「ブレーキホースなどは0.5円〜と『銭』単位の世界。自転車の部品は戦前からあるので、価格がこなれています。自動車やバイクの部品だとここまで安くないですから」

自転車の部品なのでパーツの入手も容易で改造しやすいというメリットも生まれた。「あくまでベーシックな製品なので、自己責任でいじって楽しんで欲しいですね」。

一見時代遅れにも見える無骨な FK310シリーズは、モペットと言うより「エンジン付自転車」と呼ぶ方がふさわしい。時流に媚びないこの製品に、大人たちが飛びついた。

「50代、60代の大人が『こういうのを探していた』と。ある一定の年齢になると、自分たちに合うものが売っていません。バイクにしても、オヤジが買っても『子供のを借りて乗ってるんじゃないか』と言われるものばかり。
戦後一時期モペット(当時は「パタパタ」と呼ばれていた)が売れた時期があったのですが、当時まだ子供で憧れて見ていた人たちが買ってくれます」

完全なハンドメイドで年間販売台数は150〜200台だという。

電動アシスト自転車と似ているので競合とみられていますが、うちのは免許とヘルメットが必要。だからちがいます。
電動から乗り換えるお客さまも結構いますよ。電動だと毎日バッテリーを充電しなくてはなりません。走行中、バッテリーが切れたら、いきなり動かなくなる。でもうちは混合ガソリンを入れれば、リッター43km 走りますから」。

FK310シリーズは発売15周年を迎えた。FK310 STDII はロングセラーで、14年間モデルチェンジしていない。

「こういうものは日本にはなかなかありません。そういうものをやりたいですね」。

f:id:yanvalou:20170702011644j:plain

ポケバイは教育としてすごく良いと思う

畔柳さんは約40年前の1970年代、F1のプライベートチームに所属スタッフとして参加。「究極のプロスポーツ」とよばれる世界に2年間身を置いた。

欧州から帰ってきて独立し、その技術でサンプル代わりに開発したのが、一世を風靡したミニチュアサイズのバイク、ポケバイ(ポケットバイク)だった。

「おもちゃですが、レーシングカーの部品なので100キロ出ます。ポケバイで育った若者が、何人もワールドチャンピオンになっています」。

しかし当初は大人向けのおもちゃだったという。「車のトランクに入れて運ぶことを想定し、最初は大人にしか売らなかったんですよ。ところが顧客の一人が子供を乗せたら、ぴったりサイズだった。で、レースが流行るまでになりました。ポケバイには4〜5歳から乗れます」。

子供の教育にポケバイは向いているという。「子供たちは『自分は一番だ』と思っています。でもレースでバカスカ抜かれることで、自分のレベルを知るわけです。無茶をするとけがをしますが、練習すれば、追いつける。教育としてすごく良いと思いますね」。

子供はポケバイで派手な転倒をするが、転がるだけで叩きつけられないので、よほどでないと骨折しないという。せいぜい打撲程度だそうだ。子供の頃から乗っている子は、大きくなって免許を取っても無理をしない。そういう部分でも教育効果は高い。

「でもポケバイが流行らなくなって、バイクレースが廃れてきました。だから日本はレースで勝てなくなりましたね。バイクメーカーや協会が後押しするべきだったんですが、メーカーサイドは儲からないことはやらないんですよ。だからメーカーが手を引くとブームが去って行きます。
逆に欧州ではポケバイが定着して、ロッシュとかペドロサとかポケバイ上がりの選手が出ていますね」

ポケバイが廃れた根本的な要因は、日本にスポーツ文化がないからだと、畔柳さんは考える。

「欧州ではモータースポーツが、社会的に受け入れられています。60代のオヤジがレースに参加して、奥さんがタイム計って、という土壌があるんですね。日本の場合はすべてが勝負で「○○道」になってしまう。オリンピックも、向こうはスポーツ。日本は勝負。だから外国から見たとき『ちょっとおかしいんじゃないの?』という印象がぬぐえません。一度外から見ちゃいましたからね。それを『日本叩き』というのは、違うんじゃないでしょうか」

初めて道具の力に気づいてくれた

f:id:yanvalou:20170702013343j:plain長野オリンピック用にフキプランニングが開発したスケート靴

長野オリンピックの前年にあたる1997年。日本スケート連盟からオリンピック用スピードスケートシューズ製作の依頼が舞い込んだ。「本番までの残り時間が五ヶ月しかない」というギリギリのタイミングで畑違いの「スラップスケートシューズ」を作らなければならなくなった。

「連盟は、最初ロングはスラップ、短距離は従来の靴で、と考えていて、ショートのスラップ対策を全くしていなかったんですよ(※スラップスケートは特に長距離種目で威力を発揮すると言われていた)。

ところがオリンピックのプレシーズン(1997年)の試合で、海外のショート勢は全員スラップを履いていたんです。それで急遽、スラップの開発に手をつけたんです。

スラップスケートになると、靴の要求がいままでと違います。踵が外れるため、靴に剛性が必要になった。でもシューズメーカーにその技術がなかった。メーカーは名誉のためだけでは動きません。野球やマラソンのシューズはレプリカモデルが売れので、元が取れます。スピードスケートは商売につながりません。国内の競技人口が100人以下で趣味でやる人がいないからです。だからどこもやらなかった。

それでスピードスケート連盟がいろいろ探してきて、うちに来た、というわけです。『ドライカーボン』という世界でうちだけしか出来ない技術を見込まれたようですね」

スピードスケートはオランダの国技で、あちらでは趣味でやっている人が何万人もいるという。だから大手メーカーが競技用シューズを作っても、ちゃんと商売になる。アメリカではローラースケートが盛んだ。アイススケートの靴はそういうメーカーが作る。だからアメリカでもビジネスとして成り立つ。

スラップの導入当初、選手たちは海外の靴を履いた。しかし日本人の足に合わない。スラップは靴そのものがカーボンファイバーで出来ている。ちょうど木靴を履いているような状態だ。あわない靴を履いたまま激しいトレーニングをした結果、靴の内部を血で染める選手が続出した。

日本の選手たちは「靴に足を合わせろ」と指導されていた。ある日本のトップ選手は「道具に文句を言うと怒られるから文句を言ったことがありません」というのが自慢だった、という。道具を研究するという文化が日本のアマチュアスポーツ界にはない。道具を追求すると「逃げてる」と言われる。「自分に合った道具を探す、つくってもらう」という発想はあったかも知れないが、口にしてはいけなかった。

「スラップを履くとタイムが1秒程度早くなるんですが、人間が努力すると短縮するのに15年くらい必要です。これで初めて道具の力に気づいてくれましたね」

畔柳さんは清水宏保堀井学、楠瀬志保のシューズを制作したそうだが、依頼を受けたときはまだ出場選手の選考会前。候補選手は70人もいた。靴になじむために練習時間だが、余裕がない。それこそ1ヶ月以内に靴を提供しなければならない状態だったという。

「男子500メートルで優勝した清水宏保さんの靴が出来たのは、大晦日ですよ(本番の一ヶ月前)。最終的には靴全体ではなく、革の部分だけ担当しました。靴底の部分(カーボン)は『東京R&D』の担当です。選手が本番で履いた靴は『スリーエス(SSS)』という会社のものでした」

畔柳さんは欧州のプロスポーツと国内のアマチュアスポーツのギャップにびっくりしたという。

「ほとんどのアマチュアスポーツ界は何年かに一度スター選手が出てくるのを待っている状態でしょう。フィギュアはジュニアから育てるようになってきたけど、他は一貫性のある教育がなかなかできない。場所によって教え方が違うと選手は戸惑うでしょう。国がアカデミーやクラブを作って一貫性のある教育をすべきですね」

「ほとんどのスポーツのコーチや監督は何の資格も持っていない。免許制度がない。おかしくなくないですか?」

残念なことに、いまはレースにあまり関わっていないという。自分たちとは相容れない人たちが多いからだ。

「型にはめた教育とマスコミの姿勢を正さないとね。我々が子供の頃は、学年に一人くらい訳の分からない先生がいたんですよ。そういう先生に当たった子はラッキーですよ。教科書に書いてあることは自分で家に帰ってから読めば良い。本来は本に書いていないことを教えるのが学校でしょう」

「子供がスポーツに夢を見なくなったら終わり。夢を持てる環境を作ってあげないと」
世界を相手に、スポーツの世界に関わりつづけてきた畔柳さん。ぼくらの地元には、こんな人物もいるのだ。

(有)フキ・プランニング
1975年創業。 主にエンジン付自転車「モペット」の製造・販売や自動車関連の試作品制作を手がける。
〒246-0002神奈川県横浜市瀬谷区北町43-18

www.fuki.co.jp